小説の論理とその感染

2017年ごろのじぶんの書いた小説を読んでいたら、感染してしまって、その漏洩するもののあまりの危うさに、力に、すっかり体調を崩してしまって、今まで寝こんでいた。あぶないシロモノだ。じぶんから生まれたものでじぶんがやられたのが、阿呆くさくて、笑えもしたりしたが、そういうものでもあるよな、と改めて〈アート〉と呼ばれる類のものに触れることの危うさを感じたものだ。

たとえ自分という身体から出てきたものであったとしてもそれは、「私のもの」つまりは自我や自意識の所産ではなくて、〈他者〉に属するものであるからわたしがいまそれを読んだとしても、そこに書かれてあることや、なにが起こっているのかは、やっぱり、わからない。わからないものであるからこその〈他者〉なのであり、わたしはその力動するものに感染して、眩暈がし、熱情を身体が帯びてきて、苦しくなり、危うくこのままでは、もう意識がすっかりと狂ってしまいそうにもなったし、なんというのか、書かずにはいられなくなってきたので、小説のはじめの2000字程度を一気に新たに、走り書いた。

息もつかせぬままに走らせられる衝動じみた〈小説の論理〉が、わたしの身体を躍らせる、そうしてわたしはわたしの書き出す文字に踊らされて、なにを書いているのかも、わからないままにとそれを書き、書きながら、「これは長編になってしまうものだ」という直覚を得て、今日はこんな大変な作業をしては、明日の仕事に差し支えが出るからと途中で中断した。

中断はしたのだが、〈欲望〉はおさまらずにいて、わたしは仕方なしにベッドへと横たわり、跳ね回る心拍と血液の流れ、胸の高揚と眩暈、頭の只中の膨張感覚とともに、苦しみながら身体の全身の筋肉や細胞たちがかつての2017年ごろのわたしの感覚へと、すっかり回帰してあることに気づいた。

わたしは今ではあの当時のわたしの体感や息苦しさ、眩暈、身体の痛み、を、もうすっかりと忘れてしまっていたものだったのだけれど、あの小説たちの〈痕跡〉には他者であるわたしの痛みが、無意識が、〈生きられてあるもの〉たちが、今もまる裸のままに遺されていた。それに感染して、憑依してしまったわたしの今の身体はあの時のわたしの痛みや苦しみを、そのままに引き受けてしまい、苦しんだのだったと思う。

カントが、無関心な快として語った芸術なるものにまつわる観念を批判しながら、ニーチェの思考を引いて語り出すあの『中身のない人間』という、ジョルジョ・アガンベンの著作のことが、今のわたしの脳裏には浮かびあがっている。

ニーチェの語り出す、舞踏の神、デュオニソスの神のこと。〈生〉はおよそ「快」だけでは稼働せず、そこに表出されてくるものには出逢うものに「不快」を与えるものもまた、あるだろう。

わたしはあの小説らを読みながら、「快」と「不快」とを一挙に抱く大きな〈存在の眩暈〉とでもいうものにふれたのだ。その〈存在〉にはもちろん「生きている」ものを含むけど、「死んでいる」ものをも含むだろうし、わたしはあの時は、「死がこちらへとよくやってくる」という感覚を持っていたものであったから、その〈死〉をも含みもつ、大きな〈何か〉としか、ひとまずは言明しようのない〈それ〉が、わたしに毎日のよに、何千、何万という文字の舞踏を舞わせたのである。

手だけでも 踊り と言えるでしょう

そんなことを確か大野一雄さんは、『稽古の言葉』の中に、書いていたのではなかったか、と思い出されてくる。手の踊りがあるし、足の踊りもまたあるし、立つだけの、座るだけ、とにもかくにも〈踊り〉の只中への没入や、陶酔があって、わたしはずうっと、その中に踊らされては死にかけたいたのである。

『シャーマニズムの人類学』を今読んでいる。ファースらによる、シャーマニズムの諸形態の、その構造の分類には、結局のところ、「これこそがシャーマニズムである」というような、定義や規則の一般化は確定されてはおらず、学者によっても、文化によっても、シャーマンと一括して語られる人たちの「脱魂」や「憑霊」の形態構造には差異があり、画一的には決めることは難しいようであるのだが、今のわたしに浮かぶのは、その〈力〉のコントロールを成すことができているのか、はたまた狂気や「障り」のようなものへと毒されてしまい、「憑き物」に翻弄され苦しむ人や患者との違いである。

〈生〉は一個の生命体としての人間の「生」よりも広範に、広大に、恐るべき〈力〉をもって人間の生命を脅かすものにもなりうる。それは〈生の過剰性の表出〉とも、言いうるものだし、〈世界〉の、人間の〈外〉からの大いなる〈力〉とも、言いうるものではあるのだと思うのだけど、〈それ〉がいったい"どのようなものであり、なんなのか"ということは、わたしには、わからない。

所在の、原因の不明な、人間の合理的な生命の力動を超えた、なんらかの〈力〉が動いて、その〈欲望〉が、わたしという人間の身体をのっとって動かす、動かそうとする、そうしてわたしは、ただただその力に翻弄されてしまう。

その〈力〉を抑えたり、内部に溜め込んだりしないよにすることが、当時のわたしにはまだうまくはできなかったのであったと思うのだ。

だからよく、死にかけていた。

これは今現在からのわたしの〈病状〉の分析の、ひとつの文脈の語りにすぎず、そればかりでその当時の状態を言明化することはもちろんできないのだけれど、ひとつにはその、〈力とどう向き合うか〉というテーマというものがあり、〈力〉に翻弄されて、そのあまりの強さに生命を奪い去られまいとしてどうにか生命を保とうとする者の存在が、今のわたしにはわたしの過去として見える、体得されるものだと思うのだ。

わたしはだいぶ死ななくなったのだが、きのうあのようにふれてしまったものが、今もまだ、身体の中に残っているから、こうして浄化しようとして文字を、冷静に書くことを、しているのだろうか。わからないけれどひとまずは、ご報告をと思って、書く。をする。

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