『いつかの君へ』
いつかの君へ
こんにちは、あるいはこんばんは。
君がこれをどんな時間帯に読んでいるのか、今の私には甚だ見当もつかないので二つ挨拶を述べさせてもらいました。
さて、これを書いている私は2月も下旬。寒さも峠を越え、日によっては春を感じさせるそんな気候になっている頃の私です。
これを読む君が春夏秋冬どこに身を置く君なのか、はたまた四季から漏れるような梅雨などにいるのか。何にもわかっちゃいませんが、君に宛てた手紙のようなものでもしたためてみようと思い筆を取った次第です。
筆、と言っても厳密にはキーボードを取り出してきたわけで。さらに言えば、タブレットも用いているわけで。そもそもアナログな手法で手紙を書くときだって、私は筆ではなくボールペンを使用するわけで。
だから、ただ単に格好つけただけで、正確さには欠けている表現をしたわけです。
これを読む君が、それにどれほど関心を持つかわかりませんが一応の弁明とさせていただきます。
本題に入る前に、いまの私について少しだけ記させてほしいと思います。
私は昨年の夏に本格的に適応障害を患い、そのまま退職、そして現状フリーターという身の上です。笑ってしまいますね。幼かったあの頃、大学に入り自身の将来を思い描いたあの頃、どんなときの私にも想像のできなかった私がたったひとつの現実です。
いまの私には何にもありません。まさに持たざる者。
何かに挑む心も勇気も自信も、生きる能力すらに欠けていて。私の手の中にはなんにもありません。いま、私がかろうじて生きているのは「いま死んでしまえば、私は両親に借金しか残せない」と自覚しているからです。奨学金の返済も、保険料の支払いもままならない愚図ですが、それでもなんとか正気を保って生きています。
いつか借金のことすらどうでもよくて、生きる苦しみの方が勝ったその時は、正気じゃなくなったということで自死を選ぶかもしれませんね。
だけど、今日までの20余年ばかり、幾度となく希死念慮と一緒に過ごしてきて死んでいないのだから、きっと大丈夫なんでしょう。知らんけど。
人って気付いたらいなくなってる、なんてことざらにあるものだと思うので、自死しない確信は持ってません。なんとなく選べないだろうな、という経験則でものを言ってます。
君はどうですか?
これを読んでいる君は?死にたくないですか?生きる理由を深夜のベッドでひとり必死に探したりなんかしてませんか?朝を迎える恐怖に唇噛み締めて耐えてませんか?「死にたいあなたの今日が、生きていたかった人の明日なんだよ」という文言に反吐が出てませんか?美しい命を讃える言葉に中指を立てていませんか?誰かの説教が流れ弾のように心臓を貫き痛めていませんか?自分じゃなくなってしまいたいと願いながら生きてはいませんか?あの日の記憶をわざわざ掘り起こしては羞恥と後悔と懺悔のままにいなくなりたいと望んではいませんか?
大丈夫ですか?
大丈夫か、否か。答えられた時点でまず満点ですね。
いまの私には答えられませんでした。どっちなんでしょうね。
けれどこんな手紙を君に書いている時点で、あんまり大丈夫ではないのでしょう。
生きるのは辛いです。たぶん数えてみたら辛いことの方が多いです。
だから辛いことはなるべく数えません。楽しかったこと、よかったことそれらを指折り大切に数えるのが生きていくコツです。
私は過去、高校時代にも適応障害を患っていたのですが、その頃に母に「15年程度生きてても生きるの辛い、しんどい」とこぼしたことがあります。
そのとき母は「こんな若いうちからそんなこと言っててこの先どうするの」と呆れたような、怒ったような口調で返しました。
このとき私は「あ、無理だ」と思ったことを強く覚えています。
だって、私は辛かったから。この先を生きることすら考えられないほど、辛くて苦しくて、四六時中息がうまくできなくて。そういう時間を過ごしていたから。だからこぼした言葉だったのに、母をはじめとした世間の多くの大丈夫な人は、きっとこの息苦しさを知らないのかと、壁というか、境界を感じました。私は、切り離された側だったのか、と。
父にも一度言ったことがあります。「自分はもうだめかもしれない、病気かも」
すると父は読んでいた新聞から目を私に移し、「本当に病気の人に失礼だろ」とイライラしたような口調で返しました。
おそらく震えていたであろう声で「先に帰る」と伝え、公民館から早足で抜け出し近くの梅が綺麗なお寺に行きました。とにかくひとりになりたかった。目の前で泣いてしまえば、父をもっと苛つかせてしまう。怒られる、責められる。その恐怖が足を動かしてくれました。
参拝客もそう多くない境内で私はひとり声を殺して泣きました。
私はSOSを出したつもりだったのに、だめだった。父には届かなかった。震える声で、頑張って作った笑顔で、だけどなるべくおどけて、そうやって伝えた言葉は、なんにも意味を持たず、受け取ってもらえず、ただ地面にばしゃりと落っこちました。
そうか、こんなに死にたくても病気じゃないのか。じゃあこれはなんだ。名前のない死にたさに絶望するしかありませんでした。親には助けてもらえない。きっと理解すらしてもらえない。共感が無理でも、理解してもらえたら。そう思っていましたがなんにも叶わないのだとわかりました。これは、この死にたさは、私が一人で抱えるべきものなんだ。そう思ってから、私は両親にそういった感情を見せることはできませんでした。これは見せちゃいけないものなんだと学んだからです。拒絶されるのは怖いことです。だったら一人でいるしかない。そう思い過ごしました。
しばらくして、父も少し心の病について勉強したのかそれで問い詰めてくることは格段に減りました。だけど、一度失った信頼はそう簡単に取り戻せないですよね。たぶんもう二度と信じられないですし、それは仕方のないことなんです。父と私、母と私の間にできた、絶対的な溝は埋まらない。できたときからそうと決まっていたのだから。
「なぜ登校できない」「泣いてちゃわからない」「理由があるはずだ」
私だって、なぜこんなにも死んでしまいたいのか、理由があるのなら知りたいですよ。だけどそれは、生きている中で少しづつ積もっていって気付けばここまで大きくなっていた。そういうものなんです。人に説明する以前に、自分でもわかっていない。頭の中の冷静な私が「そんなに泣かなくても。死にたいと思わなくても」と言ってくる声が聞こえます。だけどそれを上回るほどの死にたさが私の首を絞めてくるのです。
君はいま、死にたくはありませんか?
私は少しだけ、いなくなってしまいたいと思っています。どうしようもない私自身のことを愛せない、そういうタイミングなので。
私には私の生きている地獄があります。きっと君には君の地獄があると思います。
これは君のちょっとした先人としての生きる上でのワンポイントアドバイスなんですが、“どうせ地獄で生きるのならその地獄をより良い地獄にしていく“つもりで生きるといいですよ。
私の部屋はある時期からずーっと汚いですが、本当なら部屋なんて綺麗であればあるほどいいですし。運動習慣だって、ないよりあったほうが絶対にいいですし。
地獄なのはしょうがないことで、この希死念慮はもう捨てようがないものなので一緒に生きていくことを前提としますが。それでも、自分自身に弱点を作らせない方がいいんだと思います。太りすぎるとか、肌荒れとか、そういうところからも自尊心はこぼれて取り落としていきますから。
だけど反対にそれは、そういったことやもっと些細なことでも、自身との約束を守れれば自尊心を補充できるということです。
だから、今までのこぼしてきた自尊心とやらを補充できるようになんとなく生きていきましょう。
こういうとき多くは「頑張って生きていきましょう」と書くかと思ったんですが、それはプレッシャーになるだろうと「なんとなく生きていきましょう」をチョイスしました。
では、また。なにか機会がありましたら、こうして手紙を書かせていただきます。
これを読むいつかの君、あるいは私自身へ
今日の私より
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