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【エッセイ】猫を飼っているから生きている

こんにちは、ユスラウメです。

突然ですが、我が家には猫が2匹います。過去には他にも3匹の猫たちがいました。
私の人生にはずっと猫がいます。むしろ、いなかった期間はほんの2、3年だったと記憶しています。

かわいくて、ふわふわで、ちいちゃくて、あたたかい。
猫とはそんな存在だと、日々実感して生きています。
この子たちがいてくれるから、かろうじて私という人間は死なずに生きています。

私は、つい先日「適応障害」の診断を受けました。
それまでの人生でも、うっすらと生きづらさや強い抑うつを感じていましたが、それらにいよいよ診断名がついたのです。
働き始めて数ヶ月が経った時点での診断。なんとなく自分でもそんな感じがしていたので、「やっぱりな〜」というのが一番初めに出た感想です。
自分の生きづらさに名前がついて、次に感じたのは安堵でした。
「すでに多くの人がなっているものなら、きっと対処法もあるはず」
自分だけではないのだ、とわかり少しだけ楽になりました。きっとなんとかなっていくという希望を感じたのです。

今日までの間で、実際はそううまくいっていません。
希望は希望のまま、現実には即していませんでした。
我ながら情けない話ですが、アルバイトの面接を受けるたびに嫌な考えが頭の中を支配し泣いてしまいます。厳密には面接を受けて帰路についたその時に、「受かってもどうせまた辞める」「続かないくせに」「務まらないよ」「できやしない」と望んでもいないのにグルグルと考えてしまうのです。

退職を決めた際、「後悔しないぞ」と決意したはずなのに、やはりこの経験が私にとっては挫折となりトラウマになっていたのでしょう。

そう簡単には次に向かえない。だけど日々を暮らすためには就職せねば成り立たない。
この狭間に生きる私は、抑うつに苛まれながらも職探しを続けています。
必要なことだし、みんなもやってることだし、だからやらなきゃ。
どうしてみんなができることを私はできないんだろう。
その思いのまま家に帰ります。
父母に合わせる顔もない。だから自室に閉じ籠り、シクシクと泣き己に絶望して自己嫌悪まみれになります。

本当は、もういなくなってしまいたい。自分でいることがつらい。どうして「人並み」になれないんだろう。消えて無くなりたい。自我が鬱陶しい。

そのとき、ふと視界に映るのです。
ふわふわで、あたたかくて、瞳が美しい、猫という生き物が。
そしてやっと、私は自分を少しだけいいと思えます。
「いま急に私がいなくなったら、この子がびっくりしてしまうから」
だからまだ生きようと思えるのです。
こんなにあたたかな命がそばにいるのに、終わりまで見届けずにいなくなれない。そこまで無責任にはまだなれない。
本当はいなくなってしまいたい私に、生きる理由を提示してくれる。
小さな体に大きな意味を持っている猫たち。

猫たちには、今日も生きてくれていることに感謝しかありません。
猫と暮らすのは、別に楽ちんなことではないです。だけど、お世話の手間や別れの悲しみ以上に、私の心に与えてくれるものがたくさんあるから。
亡くなってからも、猫たちとの思い出を生活の端々に感じ、私はそれを胸に生きていきます。
いっつもギリギリで、健やかではない心持ちで、かろうじて死なずに、それでもなんとか生きていきます。
かわいいかわいい猫たちが一緒に暮らしてくれるかぎり。


ここまでお読みいただきありがとうございます。

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