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そして、スモークサーモンは心のなかを遡上する
──すこーし、チクッとしますよぉ
神経に近い麻酔針の痛みに、私はビクン、と身体を浮かせ、喉から「ほへ」と珍妙な音が漏れた。
この痛みが「チクッと」なら、銃声はプニンだぞオイ、などと内心毒づく。
やがて麻酔の領域がぼわーん、と朧げになって、とうとう自分のモノではなくなった。
──唾でバイキンが入らないように固定しますねぇ
「バイキン」などと子供に言い含めるような口調はおろか、口が閉じぬように開口器──いわば一種の拘束具を装着された。恥辱である。屈辱である。私の生殺与奪権は、ひとまわりも若そうな歯科医に握られているのだ。彼がハンニバル・レクター博士のごとく人物ならば、これから私は開頭されて脳みそをソテーされてしまうにちがいなかった。
──それでは始めていきますねぇ痛かったら教えてくださいねぇ
つい今しがたの注射の痛みは誰に教えりゃよかったんだよ?え?第一どの歯医者行っても判で押したようにジブリのオルゴールかエンヤばかり流しやがって。大の大人がオルゴールで心の安寧でも得られると思うか?どうせシンドイならデルタブルースでも爆音でくれや。歯痛にはエンヤよりドブロギターのほうが効くに決まってンだろ?え?若い頃はエンヤとデミムーアの見分けがつかなくて難儀したのもお前ら歯科医師のせいかもなハァハァ。
内心は歯科医への呪詛と罵倒で荒々しかったが、身じろぎもせずに治療を受け、あまつさえ「どうもありがとうございました」などと医師に頭を下げる己の社会性につくづく嫌気が差しつつも次回の予約と会計を済ませて歯科医院を後にしたのだった。
この鬱憤を晴らすには、スルメでも齧りながら焼酎を浴びるのが最適解だが、何せ根深い虫歯の絶賛治療中だ。酩酊にまかせて仮詰めの歯でカチカチのスルメ下足でも齧ろうモノなら七転八倒は必至である。ともすればそのまま天に召され、団体信用生命保険、いわゆる団信が下りてローンがチャラになって妻もひと安心なのかもしれなかった。
──酒は飲まずにいられない。
──しかし、
──完治するまでは、やわらかいモノに限る。
西空をぼんやりと眺めながら、私は今後の酒肴について思いを致した。
暮れなずむ空は、うつくしい橙にすじ雲をたなびかせて、まるでサーモンの切り身のようだ──。
───サーモン....か....
サーモンは
とてもやわらか
歯にやさしい
などといった風呂にのぼせた小学生が吐き出したがごとく川柳とともに、サーモンの調理が決定した。決定したと同時に、私は燻製家だということを思い出した。
もう、なんというか──
燻製をせずにはいられない。
産卵のために鮭が川を遡上せずにはいられないようにだ。
早速スーパーに立ち寄ったが、ノルウェーサーモンとアトランティックサーモンが並んでいた。どちらも脂をたたえていていかにも美味そうだが、私はアトランティックサーモンを手に取った。出来るかぎりロマンティックに。ドメスティックに。そして、アトランティックに。
さて、スモークサーモンとは言っても、今回は手間を少し簡略化した方法で作っていこう。この方法は保存性にやや劣るが、サーモン刺身の良さも残しつつ、燻製の風味が活きた塩梅に仕上がるのでオススメだ。
【サーモン300g】
・岩塩 6g(サーモン重量の2%)
・きび砂糖 6g
・粗挽き黒胡椒 3g
・ドライハーブ 少々
(ディル、タイム、セージ、ローズマリー等)
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ピチットシートを敷きサーモンを乗せ、混ぜた上記の材料をまんべんなくサーモンに振りかける。すり込むと身崩れしてしまうので気をつけたいところだ。
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ピチットシートでしっかりと包みバットに乗せ、冷蔵庫で3〜6時間脱水と塩漬けを同時に行う。
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表面を洗い流し水分を拭き取ったら、サーモンを軽く風にさらし乾かして燻製工程に入る。
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古き良き未確認飛行物体、いわゆるUFOがごとくフォルムだが、これはオーブン燻製器という確認済燻製物体だ。CSOと憶えておこう。今回のような氷を敷き詰めた冷燻から温燻や熱燻、液体を張ったウォータースモークまで網羅できる便利な燻製器だ。
今回は、香りのやわらかなミズナラのウッドチップを燻製器に敷き、とろ火にかけ30分ほど燻煙にかけた。
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燻製後は煙のツン、としたエグみが鼻につくが、フードシーラーやラップで包んで冷蔵庫で数日間寝かせると煙が熟れて芳しくなるから不思議なものだ。
あんなにも恐ろしかった貞子が、どんどん可愛らしく思えてくるのに似ているしれない。ちがうか。
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──3日後──
開封すると、スモーキーだがカドのとれた良い香りがする。
私はスモークサーモンを掴み、胸いっぱいにそれを吸い込んだ。
「おおサーモン!どうしてあなたはサーモンなの?」
などと、シェイクスピアの戯曲よろしくサーモンに語りかけたが、待てど暮らせど鮭が口を開くことはなかったので、「薄くスライスするの刑」に処することが決まった。
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ほどよく水分が抜けて締まった身は切りやすく、包丁と指を溢れんばかりの脂で滑らせるさまは、妖艶ですらある。とはいえ、スモークサーモンの切り身に欲情するほど私は性的に倒錯はしていない。ただただ包丁を走らせ、心ゆくまでスライスを堪能した。
玉ねぎを切り、水にさらしエグ味を抜く。水気を絞り皿へ盛って、サーモンを並べていく。サーモンの山頂にレッドキャベツスプラウトをあしらい、塩少々と黒胡椒を挽く。香りが強めのEXVオイルをたっぷり回しかけて完成だ。
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サーモンに紫を乗せるのはアヴァンギャルドが過ぎるかな、などと少し懸念していたが、むしろ夕暮れの色彩により近づいた観もあった。その色彩は、やけに郷愁をさそう──濃い夕焼けだった。
皿を見つめていると、町に「遠き山に日は落ちて」が流て、バイバーイ、じゃあねー、友達が黄昏を背に家路を駆けていく。ただいまー、と玄関をカラカラ開ける。煮物と実家の匂いが鼻を撫で、エプロンをつけた在りし日の母がひょこりと顔をだした。そして、おかえり、と私に笑いかける。
──母ちゃん....
あ、母ちゃん──めちゃくちゃ元気に生きてたわ。
母の生存に安堵しながら、山頂に箸を刺して野菜をくずし、サーモンをすくいあげる。
とろりとしたサーモンは甘く、やわらかな塩、燻香をたたえ、口の中で溶けていった。サーモンの余韻と、野菜の青さが、また次のひと口を誘う。燗にした純米酒を含んで、箸をのばす。
──これはいい。
そのやわらかさは治療中過敏虫歯にも障ることなく、その安心も相まって晩酌の箸はまたたく間に皿を平らげたのだった。
あまりの出来に、夢中になって食べすぎてしまった。
──もっと、味わって食べるべきだったな....。
などと、口のなかの名残──余韻をもとに、スモークサーモンの味わいを反芻する。
過ぎた記憶を──味わいが遡ってくる。そのさまは、産卵のために川を遡上する鮭に似ていなくもない。