僕の肩書きは所長になった
2011年3月11日。日本が忘れることができない日になった。視察旅行に参加するために、島民の20%くらいが島を離れていた。視察旅行からの宝島に戻るためのフェリーは、津波の影響で運行見合わせになった。ちなみに、島民100人の島では、20人いなければ20%だ。
地震の影響は宝島にもあった。計画停電や、発電停止の噂まで飛び交っていた。しかし、実生活は、待ってくれない。視察旅行から宝島に戻り、急ピッチで次年度の準備が進んだ。その反面、実は僕のモチベーションのようなものは下がっていた時期でもある。その原因は不安だったのか、自分の及ばないところで話が進んでいく感覚だったのか、定かではないが「なんのために、ここで仕事をしているのか?」と自問自答していた。多分、モジモジしていた時期だと思う。
「今後の事業が、島民にどのように理解されていくのか、自分たち次第でもあり、一緒に作り上げていくものだと思う」
と記録している。
次年度の方向性を伝える住民説明会
次年度から、24時間365日のサービスが開始される。人口が少ない分それぞれの役割が多く、何かと会議の多い島だが、これだけの人数が集まる説明会は少ない。
島民の皆さんの関心の高さを感じ、有り難い反面、プレッシャーも感じていた。そして、皆さんと考えた「小規模多機能ホームたから」という事業所名。サロン活動「やすらぎ」ここに至るまで、9ヶ月が掛かっていた。そして、僕の肩書きは「所長」になった。これまでと何も変わらないのだけど、気負っていた自分がいたと思う。
初めての契約
そして、初めての利用契約を結ぶ瞬間、さらに気が引き締まった。最初の利用者になってくださったのは、シマさんだった。当時の女性最高齢。まさに宝島の生き字引だ。「目が見えないから。あんた、書いてよ。」と言われるも、メガネをかけて、自筆で力強く、契約書にサインしてくれた。「寝てたら、すぐ踏んじゃうの。」補修も自分でする、ガムテープと輪ゴムでだ。メガネにシマさんの人柄が垣間見えている気がする。
職員の退職と地域からの見えないサポート
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