YONEKURA YUSUKE

大学を卒業後、青年海外協力隊(カンボジア:体育)に参加。帰国して、専門学校(柔道整復師…

YONEKURA YUSUKE

大学を卒業後、青年海外協力隊(カンボジア:体育)に参加。帰国して、専門学校(柔道整復師)に入学するも、1ヶ月で退学し、吐噶喇列島宝島へ。人口100人の離島で介護事業所の立ち上げ、運営に携わる。2019年4月に、家族でベトナムへプチ移住。2019年8月、単身でベトナムへ。

最近の記事

宝島へ移住し、島民になり、人に向き合い続けた10年を振り返って

年内に締めくくりたくて、後半は足早になったけど、この振り返りの時間が、これまでの僕の宝島での暮らしを、これからの糧にする時間だったと思う。リアクションしづらい内容も含めて、とりあえず、一区切りまでお付き合いいただき、ありがとうございました。 そういえば、僕の連日の投稿を見て、僕が移住した頃に中学生だった方からメッセージが届いた。その子の両親もIターン。娘の卒業とともに、家族で転出されていった。宝島はこれからも、様変わりしていくと思う。僕はいつか送られた言葉を、彼女に送った。

    • 介護を通して、生を学ぶ 〜島民への感謝〜

      私たちは3月、約10年関わってきた宝島の介護事業から撤退し、次の事業者に引き継ぐ。主な理由は、島民や行政との方向性の違いと、人材確保の難しさが挙げられる。 管理者として考えてきたのは、自分たちの存在意義だった。島民の思いに寄り添い「島でのみとり」を進めてきたつもりだったが、医療職を含めた行政側は、リスク管理を優先させ、考え方は次第に溝ができたように思う。ぶつかり合いながらも、お互いの立場を、理解はしようとしてきたと思っているが、譲れない部分もあった。 事業所を始めた頃は、

      • 宝島での最後の時間を噛みしめながら過ごした話

        2019年の年の瀬。島を離れる決断からの時間、移住してきてからの9年を振り返ってきた。色々なことを感じ考えて、暮らしてきた。時を忘れさせる島は、きっちり忘れられないでいる。強くない僕は、無い物ねだりをし続けてしまう。医療が充実していれば。島民の意識が変われば。行政が変われば。僕たちは何をどうしたら。 特に、最後の3ヶ月。昨年末の青年団の忘年会では、数年ぶりにタバコに火をつけた。吸うことに意味はなく、その時一緒にいた、竹内さんとの時間に意味があった。賑やかな場を眺めながら、思

        • 島に息づくお互いさま 〜老い方と支え方〜

          8月、宝島は少し活気づく。お盆に帰省する出身者の中には、いつかは帰ってきたいという思いを持っている方もいる。また夏休み中の学生や社会人、家族連れが、秘境と言われる土地で、未知の体験を求めて訪れてくる。100人の島に、10数人の人が来島するだけで雰囲気ががらりと変わる。 実はこの夏から、宝島の中では大きな変化があった。昨年まで旧暦で行われたお盆行事が、今年から新暦で行われることになった。 数十年前から話し合われて来たことだったそうで、今年度の自治会の総会で決定した。ただ、初

        宝島へ移住し、島民になり、人に向き合い続けた10年を振り返って

          島を離れることへの葛藤と決意

          2018年の初夏。僕は島を離れる決意をする。 僕のこの島での役割は終えていたのだろうと、振り返る。当時、黒岩さんに下記の内容を伝えている。 黒岩さんに伝えたことこれまでの経験の積み重ねから、宝島に対して、ネガティヴな考えが募ってしまっている。島に携わる事に対して、島内の慢性的なマンパワー不足による「やらされている感」で、これまで以上に精神的なストレスを感じている。 事業所、個人に対しての批判を聞き続け、疑心暗鬼な部分もあり、頭ではわかっていながら、適切な行動が取れないこ

          島を離れることへの葛藤と決意

          田んぼが異世代交流の場所になった話

          宝島で日々の暮らしを営む中で、移住当初から、島の伝統を残したいという声を聞いてきた。旧暦のこよみで行われる、昔ながらの政も残っていた。米づくりも政にとっても大事なことの一つだった。 田植えや稲刈りになると、普段はつえをついて歩く高齢者も、田んぼに入っていく。心が動けば、体が動くことを目の当たりにした。「米づくりを続けるお手伝いをしたい」。そう思った瞬間だった。 仕事の合間に、地域の有志と共に取り組むようになった。転勤で来た教職員や移住者と地元の人がつながる場づくりという狙

          田んぼが異世代交流の場所になった話

          美江子さんへの手紙

          美江子さんが体調を崩したのは、去年12月でしたね。ヘリコプターで奄美大島に救急搬送された時、私は心配で眠れませんでした。事業所内で体調を崩され、責任も感じていました。 奄美大島での入院を経て、宝島に帰ってきたのは、クリスマスイブでした。すごく嬉しかったです。 少しでも長く座っていてほしいと、スタッフも介助の勉強をしました。それは、美江子さんの焼くヤキモチを囲みたかったからです。みんなで鍋を囲んだ忘年会は格別でした。手づかみで器用に魚を食べている姿に、幸せなを感じました。

          美江子さんへの手紙

          島で看取る動きに対しての周囲の反応

          家族の想い 最初は、「短命にさせてしまうのでは」という気持ちがあったが、自分たちの父親を、施設内で孤独に亡くした経験から、最期を独りで迎えさせたくない。今のまま鹿児島の施設や病院だと、数ヶ月に一回の面会しかできない。島に連れて帰りたい。 離島であるため、亡くなった後のことが心配である。家族だけでは対応できないために、他の島民に迷惑をかけてしまう。本人が希望していなかった胃瘻であったが、宝島の帰って来るために、胃瘻をつくった。  自身のご家族を看取られた経験から、入浴に対し

          島で看取る動きに対しての周囲の反応

          美江子さんが島を離れてから思い出していたこと

          美江子さんとのこと2011年5月に鹿児島市内の老健施設から、宝島で介護サービスが提供できるようになり、「母ちゃんを島に連れて帰りたい。」とご家族の意向もあり、出身地小宝島の隣にある宝島に戻ってこられる。当時、ご家族は「鹿児島の施設では、地理的になかなか会いに行くことが難しい。宝島であれば、船便に合わせて顔を見ることができる。」と話されていた。 当時の宝島からすれば、片麻痺の車椅子の高齢者が島で暮らすことは想像できていなかったと思うし、受け入れる側であったスタッフも不安だった

          美江子さんが島を離れてから思い出していたこと

          島での最期を迎える現実

          2018年、春。美江子さんの体調が悪くなった頃に来ていたボラバイトの方から指摘されたことで、僕の心が死にかけたことを思い返す。普段なら反応していたかもしれないことを、僕は反応ができていなかったようだ。 管理者という立場以前に、人として、このままでは駄目だと思った。その頃、地域おこし協力隊として、2名が来島。1人は看護師だった。視点の違う看護師が事業所を訪れ、諦めていた僕たちを立ち止まらせてくた。 美江子さんの最期に、もう一度目指すべき姿を目指せる機会を求めていたように思う

          島での最期を迎える現実

          受け継ぎたい味

          美江子さんは、当時88歳。 数年前に脳梗塞を患い、後遺症の片麻痺がある。倒れた直後は、住み慣れた小宝島には、介護施設がなかったため、鹿児島の施設に入所されていた。 それまで一緒に暮らしていた家族も受け入れざるをえない、現実だった。 それでも、「島に帰りたい」。いやそれよりも、家族が「島に帰って来て欲しい」と願っていた。昔から小宝島の兄弟島と言われている隣の島、宝島に、「たから」ができたことで、その願いが実現した。 それまで過ごしていた鹿児島の施設に比べれば、まだ十分な設

          受け継ぎたい味

          島での介護、一歩ずつ

          「母ちゃんを島に連れて帰りたい」 「あいた、あいたた」 美江子さんを宝島に迎えた時の僕らは、実践では身体介助をしたことのない、素人同然だった。それに輪をかけて、バリアフリーには程遠い住環境…美江子さんは、介助が上手くいかず、「あいたた、あいたた」と言われていたことを思い出す。 美江子さんは小宝島で暮らしていた。 しかし脳梗塞を患い、鹿児島市内の介護施設へ。 介護が必要になれば、 介護施設のない島では暮らせない。暗黙の了解だった。 それでも、「島に帰りたい」。いやそれより

          島での介護、一歩ずつ

          宝島のオイルショックの話

          2018年、全国的なニュースにもなった。宝島への重油の漂着。 これは、宝島を揺らした。当時のことを書かせてもらった記事では、きれいにまとまった感があるが、実際は深刻だった。 重油漂着の裏側でパートさんの一部は、高給な重油の回収作業に参加する。常勤の出勤簿は真っ赤だ。夜勤の連日勤務を含め、日中も人が確保できない。休めない日々が続いた。 追い討ちをかけるように、風の噂で事業所への不満が聞こえてきた。各家庭の経済活動にどうこういうつもりはなかった。ただ、作業に参加しているパー

          宝島のオイルショックの話

          「見守り支援事業」に対して提案したこと

          そして、年度が変わる頃、高齢者支援のため、対象が異なる複数の事業が立ち、少ない島民を分ける形なっていた。簡単には言い表せない、人間関係も含む、複雑な事情もあった。 また、十島村は7つの有人島があり、一つの行政で7つの島をまとめる。各島の状況が違う中、少ない職員で取り仕切ることは大変なのはわかる。 そんな中、高齢者の支援体制に、僕は思うところがあり、あえて下記のような提案をした。しかし、思うような結果には繋がらなかった。 【当時の課題、問題】 宝島での高齢者支援において、

          「見守り支援事業」に対して提案したこと

          息子の8歳の誕生日に思う

          2019年11月13日。息子が8歳になった。毎年、一緒に過ごした誕生日を離れて過ごす、異国の地で息子、そして娘を想ってる。もちろん、妻のことも。 8歳の僕の話僕自身にとって8歳は、特別な年だったと思う。ある意味、僕の一つのベースになった年だった。鹿児島県初の山村留学に参加した年だ。多分、この頃から、「〇〇初」には、魅かれてた。人とは違う自分になりたかったのだと思う。 初めての夜自分から、参加したいと両親に打診したという、山村留学。PTAの役員だった里親さんが、僕を受け入れ

          息子の8歳の誕生日に思う

          宝島の救急搬送の話

          2017年の年末。私が教えていた柔道クラブの子供も増えてきていた。保護者や、遊びに旅行者にも参加してもらう。 美江子さんの体調不良そんなある日。美江子さんが熱を出した。 滅多に体調を崩さない美江子さんだが、朝からどうも様子がおかしく、熱っぽい。事業所にて安静にし、タイミングよく来た巡回診療で来島していたドクターの往診を待った。 「美江子さん、具合はどう?」スタッフが心配そうに声をかける。熱っぽい表情で目だけ向ける。反応がよくない。腹部に手を当てると、美江子さんの表情は苦

          宝島の救急搬送の話