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オレゴン医療保険実験:無保険者に対する医療保険の影響を評価したランダム化比較試験
先進国において、医療保険の有用性を評価した社会実験、つまりランダム化比較試験(RCT; Randomized controlled trial)には2つの有名なものがあります。1970年代に行われたランド医療保険実験と、2008年から実施されているオレゴン医療保険実験です。
以前の記事でもご説明した通り、ランド医療保険実験では、(少なくとも非貧困者においては)医療費の自己負担率は健康に悪影響を与えずに、医療費を抑制することができることが証明されました。
しかしこの研究では、研究倫理の問題から、自己負担100%(つまり無保険の同じ状態)のグループを設定することができませんでした。よって自己負担ゼロと自己負担25%の違いは分かったのですが、無保険者に医療保険を与えると受療行動や健康のアウトカムにどのような影響があるかは依然として謎に包まれていました。
メディケイドとはアメリカの貧困者向けの医療保険です。収入がある程度以下であり、さらに一定の条件(子供がいる、妊娠中である等)を満たすと加入することができます。
無保険者の人が、メディケイドに加入すると、医療サービスを受けることが可能になります。そのため、メディケイド加入によって経済的に安定すると考えられますが、それによる医療サービスの消費量や健康状態にどのような影響を与えるかに関してはよく分かっていませんでした。
この問題に終止符を付けるために実施されたのが、オレゴン医療保険実験でした。
オレゴン医療保険実験の経緯
オレゴン州は2000年代前半は財政難のためメディケイドの対象者をそれほど積極的に拡大していなかったのですが、2008年頃に州の財政状態が良くなってきたため新規のメディケイド対象者を募ることにしました。問題は、メディケイドの新規対象者がおよそ9万人ほどいるにもかかわらず、州には1万人分の予算しかなかったことです。
そこでオレゴン州は「くじ引き」でメディケイドに加入できる人を決めることにしました。
このことを知った2人の医療経済学者が「これはRCTをするチャンスだ!」と手を上げました。ハーバード公衆衛生大学院のキャサリン・ベイカー教授と、MITのエイミー・フィンケルスタイン教授です。
RCTとは研究参加者を「ランダムに」治療群とコントロール群(治療を与えない群)に割り付ける研究方法ですが、割り付けがランダムであることで、2つの群が「治療」以外の要素に関してほとんど同じであることを保証しています。実は、このランダムな割り付けと「くじ引き」で選ぶことは同義なのです。
どうせくじ引きで選ぶのであれば、この機会を生かして研究にしてしまおう、ということで実現したのがオレゴン医療保険実験です。
2008年に医療保険を与える群と与えない群にランダムに割り付け、1年後と2年後の様々なアウトカムを評価しました。この研究から得られた主な知見を下記に示します。
オレゴン医療保険実験から得られた知見
医療サービス利用状況へのインパクト
メディケイドは入院治療を受ける確率を30%上昇さた
メディケイドは外来受診を35%増加させ、処方薬の資料を15%上昇させた
メディケイドは予防医療サービスを受ける確率を上昇させた(コレステロール検査する確率50%上昇、40歳以上の女性が乳がん検診を受ける確率2倍に増加)。
メディケイドは未払いの医療費請求を25%減らした
メディケイドは18ヶ月間のフォローアップ期間中の救急外来受診する率を40%増加させた(Taubman et al., Science, 2014)
健康状態へのインパクト
メディケイドは健康の自己評価で完ぺき(excellent)もしくは良好(good)と答えた人の割合を24%上昇させた
メディケイドはうつ病と診断される人の割合を30%低下させた
メディケイドは糖尿病と診断される確率を増加させたが、血圧、コレステロール値、ヘモグロビンA1C(HbA1c)(血糖値のマーカー)の平均値への影響はなかった(Baicker et al., NEJM, 2013)
経済状況へのインパクト
メディケイドは医療費支払いのためにお金を借りたり、他の支払いを滞納する確率を50%以上減らした。
メディケイドは債権取り立て会社に送られるような未払いの医療費の支払いが発生する確率を23%減少させた。
まとめると、メディケイドに加入することで、医療サービスの利用率は上昇し、医療費負担による経済的リスクからは守られ、うつ病になるリスクは下がった一方で、客観的な健康のアウトカムへのインパクトはないという結果が認められました。
ここで見られた医療サービスの利用増加はモラルハザードであると考えることもできますが、そもそもこの集団が貧困層であることを考慮すると、おそらくお金が無かったために必要な医療サービスを受けられなかったのが、受けられるようになっただけであると考えられます。
なぜ医療保険は健康アウトカムを向上しなかったのか?
なぜ血圧などの健康アウトカムへの良い影響が見られなかったのでしょうか?糖尿病の薬を服用すれば血糖値は速やかに下がりますし、高血圧の薬を使えば血圧は下がります。医療保険が手に入れば、これらの治療行為へのアクセスが劇的に向上するはずです。では、なぜ医療保険は健康状態を改善しなかったのでしょうか?`
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この問題を解決するために、私たちの研究チームは、機械学習を使ってオレゴン医療保険実験のデータを再解析しました。
具体的には、因果フォレスト(Causal forest)※と呼ばれる機械学習のアルゴリズムを使うことで、効果の異質性の評価をしました。
※RCTを用いた研究では一般的に、研究対象となった集団の中から、事前にサブグループを決めて登録し、それらのサブグループで介入の効果があるかを評価します。これをサブグループ解析(もしくは層別化解析)と呼びます。そして事前に登録したサブグループ解析以外の、他のサブグループを用いた再解析を行うことは推奨されていません。これは、事後的に数多くのサブグループ解析を行うと、実際には介入には効果がないにもかかわらず、そのうちのいくつかのグループで、誤って介入に効果があるという結果が出てしまうことがあるためです。これは「多重検定の問題」と言い、評価する仮説の数が多くなればなるほど、誤った結論が出てしまう可能性が高くなります。この因果フォレストでは、機械学習の手法を用いてより複雑なサブグループ解析が可能になるだけでなく、この多重検定の問題も解消されています。具体的には、複数の仮説を検証しても、間違って統計的に有意な結果になってしまわないように統計的に調整されています。そのようにすることで、正しく効果の異質性の評価をすることが可能となります。
わかりやすく説明すると、同じように保険をもらっても、それによって得らえる効果は人によって違う(これを異質性を呼びます)可能性があります。私たちは、オレゴン医療保険実験で医療保険が健康状態を改善しなかったのは、メリットのある人とない人が混ざっていたため、メリットのある人で見られた健康の改善が希釈してしまったからだという仮説を立てました。
データ解析したところ仮説通りの結果が得られました。医療保険を得ることによって収縮期血圧が低下する集団がいたのです。この集団を他の集団と比較すると、前年度の医療費が安いという特徴があることがわかりました。
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つまり、保険を得る前から既に貧困者向けのセイフティネット医療機関などで治療を受けていた人では、保険をもらっても血圧は改善せず、血圧の改善はそれまで受診をすることができなかった人たちに限られる、という結果でした。そして、この2つのグループをまとめることで(平均を計算することで)、全体としては、医療保険は血圧を改善しないという結果になってしまったことがわかりました。
上記を総合的に判断すると、貧困層向けの医療保険であるメディケイドは、経済状況を安定化させ、メンタルヘルスを改善するだけでなく、血圧などの身体的な健康状態も改善させると結論づけることができます。
このようなことを明らかにしたという観点において、オレゴン医療保険実験は、経済状況および健康に対する、医療保険の重要性を再認識させる重要な社会実験であったと考えられます。
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