『石橋湛山日記』(2001年)の持つ大きな意味
石橋湛山に関する研究を行う際に重要な一次資料のひとつは、2001年に翻刻・出版された『石橋湛山日記』(石橋湛一・伊藤隆編、みすず書房)全2巻です。
本書に収録されているのは1945年1月1日から1957年1月23日までの12年間の日記です。それ以前の日記については戦災のために焼失したという石橋湛山自身の回顧がある一方で、戦後の研究の中で戦前及び戦中期の日記が活用されているため、所在を巡る問題が指摘されています[1]。
ただし、現在われわれが手にし得る『石橋湛山日記』全2巻からは、原敬や佐藤栄作が後世の人々が閲覧することを前提に日記を書いたのに比べ、公開を前提とせずに日々の出来事を記録していることが分かります[2]。
例えば、主治医が計測する血圧の数値(1956年1月18日条など)や、原稿を書こうとしたものの昼寝をしたこと(1952年6月22日条)などは、石橋の日常生活の一端が活き活きと記されています。
あるいは、1956年10月19日に後楽園球場で観戦したブルックリン・ドジャースと読売ジャイアンツの試合について「後楽園にて野球見物。米国ドジヤース対日本ジャイアント、四対五にて後者勝つ、おもしろくなし」 と率直な感想を書き留めていることも、興味深いものです。
こうした点は、物事を楽天的に捉え、開放的な性格であった石橋の個性に由来するものでもあるでしょう。
また、側近であった石田博英が「これほどアマチュアとは思わなかった」[3]と評したように、石橋が原敬や佐藤栄作らのように自らの日記が公開された際に及ぼす影響を視野に入れつつ書き進めるという入念さとある種の戦略性を持ち合わせていないことを示しているかも知れません。
いずれにせよ、戦後に言論人から政治家へと転身し、1956年12月には首相に就任して政界の頂点を極めた石橋の素顔の一端が窺われる『石橋湛山日記』は、戦後の政治史だけでなく、社会史、文化史、風俗史などを知る上でも意義ある資料となっています。
[1]上田美和, 石橋湛山論. 吉川弘文館, 2012年, 22頁.
[2]増田弘「解説」, 石橋湛一・伊藤隆編『石橋湛山日記』. 下巻, みすず書房, 2001年, 851頁.
[3]宮崎吉政, 新聞記者が接した政治家石橋湛山の実像. 石橋湛山研究, 3, 2020年, 185頁.
<Executive Summary>
"Ishibashi Tanzan Diary" and Its Remarkable Meanings (Yusuke Suzumura)
Dr. Ishibashi Tanzan, a Former Prime Minister of Japan, wrote diary and it is published as Ishibashi Tanzan Diary in 2001. It has important and remarkable meanings for us, since he wrote dairy event honestly.