論文「石橋湛山の国技論を通してみる--日本プロフェッショナル野球協約の問題」の草稿のご紹介(1)

今年9月7日(木)、私の新著『政治家 石橋湛山』が中央公論新社から刊行されました。

本書の「あとがき」で私が初めて石橋湛山を研究の対象としたのは2006年のことであると書きました[1]。

すなわち、私が初めて石橋湛山について執筆した論文は野球文化學會の論文誌『ベースボーロジー』第7号(2006年)に掲載された論文「石橋湛山の国技論を通してみる--日本プロフェッショナル野球協約の問題」でした[2]。

この論文は石橋湛山の国技に関する議論に基づき、いわゆる野球協約に記された「国技」の意味を検討した一篇で、石橋湛山研究において初めて野球が題材となり、野球文化研究においても石橋湛山が取り上げられた最初の事例となります。

そこで、今回から複数回に分けて論文の草稿をご紹介いたします。


石橋湛山の国技論を通してみる日本プロフェッショナル野球協約の問題
鈴村裕輔

はじめに

日本プロフェッショナル野球協約(野球協約)の第三条において次のように述べている。[1]

第三条(協約の目的) この協約の目的は次の通りである。この組織を構成する団体および個人は不断の努力を通じてこの目標達成を目指すものとする。
(一)わが国の野球を不朽の国技にし、野球が社会の文化的公共財となるように努めることによって、野球の権威および技術にたいする国民の信頼を確保する。
[二〇〇二・七・九改正]
(二)わが国におけるプロフェショナル野球を飛躍的に発展させ、もって世界選手権を争う。
(三)この組織に属する団体」および個人の利益を保護助長する。

ここに記されているように、セントラル野球連盟とパシフィック野球連盟、そしてその構成球団は、野球を「不朽の国技」とすることを目的としている。これは、日本を代表するプロフェッショナル・スポーツであるプロ野球がもつにふさわしい、崇高な理念といえるだろう。

現実には、人々が「国技」という言葉を耳にするときに反射的に連想することからも明らかなように、「すもうは日本の国技」という一種の常識的観点が存在する。しかし、野球協約を通覧しても、どのような手段によって野球をすもうに替わる「不朽の国技」にするか、という明確な規定を見出すことはできない。

このようなあいまいさが放置されたままの野球協約は、果たしてその崇高な理念に相応する現実的な成果を生み出しているのであろうか。あるいは、野球協約の意図とこれを目にするものの理解との間に相異はないのか。

本論文は、石橋湛山が指摘した国技のあり方を元に、「国技」という言葉がいかなる意味をもつのか、そして、野球が、野球協約の謳うように日本の不朽の国技たりうるのかという点にひとつの答えを出すことを試みるものである。

[1] 「日本プロフェッショナル野球協約2003」


[1]鈴村裕輔, 政治家 石橋湛山. 中央公論新社, 2023年, 301頁.
[2]鈴村裕輔, 石橋湛山の国技論を通してみる--日本プロフェッショナル野球協約の問題. ベースボーロジー, 第7号, 2006年, 213-220頁.

<Executive Summary>
Draft of Artcile: Discussing problems of the Japan Professional Baseball Agreement based on the theory about national sports of Ishibashi Tanzan (I) (Yusuke Suzumura)

An article "Discussing problems of the Japan Professional Baseball Agreement based on the theory about national sports of Ishibashi Tanzan", my first paper examining Ishibashi Tanzan, was run on "Baseballogy" in April 2006. On this occasion, I introduce the Japanese draft to the readers of the weblog.

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