広島市への原爆投下から79年目に思いだす石橋湛山の考え
本日、1945年8月6日に広島市に原子爆弾が投下されてから79年が経ちました。
人類の歴史の上で未曽有の出来事であった原子爆弾の投下を科学精神の結果であるとして捉え、日本もこのような科学精神に倣うべきだと説いた人物の一人が石橋湛山でした。
すなわち、太平洋戦争での日本の敗北を受け、石橋湛山は1944年10月から戦後の経済秩序の構築を中心とした戦後研究を行っていました。
そして、日本政府が連合国によるポツダム宣言を受諾すると、その決定がなされた1945年8月14日を「実に日本国民の永遠に記念すべき新日本門出の日である」 と、日本の降伏を敗北ではなく、旧弊を一掃し新国家を建設するための第一歩として肯定的に捉えました。
そして、戦後の復興に際しては、「単に物質的の意味でない科学精神に徹底せよ。然らば即ち如何なる悪条件の下にも、更生日本の前途は洋々たるものあること必然だ」 と指摘し、空襲をはじめとする種々の戦災からの復興という物理的な側面ではなく、国民の意識の根本的な改革こそが真の復興であると主張したのでした。
ここで石橋が挙げる「科学精神」とは、直接的には日本と連合国、特に米国との違いを意味します。
具体的には、日本政府が降伏を決断する重要な契機となった原子爆弾を作り出した科学技術であり、そのような科学技術を生み出した人間の頭脳を指します。
それでは、何故石橋は日本の再生のために科学精神が重要であるとするのでしょうか。
科学精神の粋を集めた原子爆弾が通常兵器を無力化するだけでなく、第一次世界大戦で華々しく登場し、第二次世界大戦でも各国の軍事戦略の中心であった航空機をも陳腐化させ、原子爆弾を搭載した一機の航空機があれば戦争の帰趨を決められるという現実は、もはや戦争のあり方そのものを変える力を持つからです。
さらに、特に第二次世界大戦中の日本が軍備の不足に直面した際、より高度化された科学技術によって事態を打開しようとするのではなく、精神力で補おうとする軍当局者の精神主義が敗戦を招いたという反省がありました。
石橋が「竹槍こそ最も善き武器なりとする非科学的精神」 と指摘するように、精神主義としてすぐに思い浮かぶのが、1933年に陸軍大臣の荒木貞夫が唱えた「竹槍三百万本論」でしょう。
荒木の「竹槍三百万本論」は、国家財政が逼迫する中で国防上必要な軍備を整えるための予算さえ支出できないのであれば、陸軍としては、最後は竹槍300万本を国民に配布してでも外国による国土の蹂躙を許さない覚悟であるという決意を示したものでした。
荒木の発言は国家の予算には上限があり、財政面での理由から軍備の増強が難しい場合としても、外国の勢力の侵攻に立ち向かうために可能な限り努力するという、財政と国防の関係を踏まえた内容です。
一方で、荒木に代表される精神主義は、人間の頭脳の産物である「科学主義」 を軽視するという、特に軍部の指導者の多くに特徴的な態度を象徴する立場でもありました。
もちろん、荒木の「竹槍三百万本論」も、当初は相応の理由を背景とした発言でした。
しかし、根拠が忘れ去られ、結論だけが残ることで、物量の不足を精神力で克服するといった非合理的な主張となり、それが精神力への過度の依存を招くことになったのです。
そして、このような精神主義が太平洋戦争での敗北という事態を招いたのでした。
その意味で、石橋は原子爆弾という古今に類を見ない壮絶な出来事をも日本の進路の新た指針にしようと懸命に取り組んだと言えるでしょう。
<Executive Summary>
The 79th Anniversary of the Nuclear Bom Attack for Hiroshima and Ishibashi Tanzan's Discussion of Scientific Mind (Yusuke Suzumura)
The 6th of August 2024 is the 79th anniversary of the Nuclear Bom attack for the City of Hiroshima. On this occasion, we examine the discussion of Ishibashi Tanzan, who empasised the importance of the scientific mind.