石橋湛山の生誕140年を祝して
本日、1884年に石橋湛山が生まれてから140年目を迎えました。
昨年の没後50年と今年の生誕140年というように節目の年が続いたこと、また石橋が日本の憲政史に残る壮絶な選挙戦を戦い抜いた自民党総裁選が9月27日(金)に行われるということもあり、この2年間で石橋湛山に関する話題が取り上げられる機会が増えてきました。
ささやかながら2003年以来石橋湛山の研究に何らかの形で携わり続け、昨年は『政治家 石橋湛山』を中央公論新社から刊行できた私としては、現在の状況は大変喜ばしいものです。
一方で、石橋湛山が言論人として活動していた時期の主たる議論であるいわゆる小日本主義について、主張の先見性が強調されるあまり当時の人たちには受け入れられなかった理由や石橋の議論そのものの特徴が軽んじられたり、首相となったものの1957年2月に病気によって退陣した石橋を理想的な政治家とだけ捉え、石橋が置かれた内外の政治的な状況を検討しなかったりする論者がいる点については、注意が必要です。
すなわち、いわゆる小日本主義については、石橋を予言者や占い師であるとする場合を除けば、植民地を放棄し、領土を北海道、本州、四国、九州及び沖縄列島に限定するという議論が1920年代の日本の世論の大勢を占めず、当局者の政策決定にも影響を与えなかったということからも、議論としては失敗していました。
そして、経済合理性に基づき、植民地の経営よりも自由貿易を促進すべきであるという議論が世論を喚起せず、最終的に米英との戦争によって日本が敗れることを言論によって阻止することが出来なかったという挫折があったからこそ、戦後になって石橋は政界に進出し、現実の政治に関わることで新生日本の針路を自らの信じる正しい方向に向けようとしたのでした。
あるいは、石橋の退陣については、世論も社会党をはじめとする野党も辞職を求めていなかったため、外相として入閣しており、総裁選挙ではともに決選投票に臨んだ岸信介を首相臨時代理に指名して当面の国会運営を行うことも可能でした。
しかし、自民党内では河野一郎、大野伴睦ら反主流派が石橋内閣の転覆を画策しており、岸が病気療養中の石橋を支える旨を明言していたことで政権が辛うじて維持されている状態でした。
結果からみれば石橋は退陣してから約1か月後には体調が回復しているため、岸を首相臨時代理にしていればその後も政権を担当できたかもしれません。
ただ、その間に河野らによる政変が起きれば、石橋は自らの政治的良心に従うという書簡を表明して退陣するという面目を保つことが出来ず、政権運営に窮して辞職に追い込まれている可能性がありました。
その意味で、石橋が就任から65日で退陣したことは一時的にその政治力を低下させることになったものの、かえって国民や報道機関の同情と称賛を獲得できたことで、二度にわたる訪中を含む政治活動を継続できたことは間違いありません。
上述の事項も含め、これからも石橋湛山の多様な活動を網羅するより体系的で重層的な研究が行われることが期待されます。
<Executive Summary>
Celebrating the 140th Anniversary of the Birth of Ishibashi Tanzan (Yusuke Suzumura)
The 25th September, 2024 is the 140th Anniversary of the birth of Ishibashi Tanzan, the 55th Prime Minister of Japan. On this occasion, we celebrate this memorable day for the prospect of Ishibashi studies.