改めて考える石橋湛山の「自由討議の精神」の現在的な意味
石橋湛山は、1923(大正12)年10月に発行された『東洋経済新報』第1071号の論説記事「小評論」の中で、以下のように指摘しました(本文は常用漢字及び現代仮名遣いに変更)[1]。
自由の精神とは資本主義でもない、社会主義でもない、軍国主義でもない、世界主義でもない、その他一切の型によって固められない、而して他の説を善く聴き、自らの説を腹蔵なく述べ、正すべきは正し、容るべきは容れて、一点わだかまりを作らざる精神をいう。言を換ゆれば、自由討議の精神だ。この精神こそ、今の日本に最も必要、而して最も欠乏しているものの一である。(中略)自由討議の精神を欠ける哲学・科学・芸術は、社会の進歩を妨げこそすれこれに貢献するものではない(後略)。
本文は、当時第二次山本権兵衛内閣が検討していた教育制度の改革問題に関連する評論です。
そのため、97年後の現在の日本の状況とは必ずしも一致しないところがあるかも知れません。
それでも、検察庁法改正問題についてTwitterに批判的な意見を投稿した芸能人が「芸能人が政治的批判をするな」と指摘され、「コメント欄でファン同士の激論」を理由に投稿を削除した事例[2]に接し、「自由討議の精神」の重要性が思い出され、石橋の発言を参照した次第です。
[1]小評論. 東洋経済新報, 1071: 9, 1923.
[2]ツイッターデモ 政治・社会動かす?(上). 東京新聞, 2020年5月12日朝刊20面.
<Executive Summary>
Ishibashi Tanzan and a "Mind of Open Discussion" (Yusuke Suzumura)
Former Prime Minister Ishibashi Tanzan, who was an executive writer of The Toyo Keizai Shimpo, pointed out that it is very important for us to maintain a mind of open discussion in October 1923. It seems remarkable notification for us, since there are serious struggle and conflict among people in Japan.