【レビュー】小俵鱚太『レテ/移動祝祭日』(書肆侃侃房)
「力を抜くこと」と、「力を入れないこと」は似ているけれど全く別物で、ストレッチの際はこのふたつがすごく重要だと、どこかで読んだことがある気がする。歌を詠むときもまた、程よく「力を抜いて」歌うこと、余計な「力を入れないで」歌うこと、はむずかしくも両立するべきものなのだと思う。簡単にできたら苦労はしないんだけどなあ、とため息をつく。
こういう歌の力の抜け具合がすごくいい。夏は誰にとっても特別な夏で、「明朗」の「朗」の字を持つ人と飲んだその一日も、もう二度と戻らない、たった一度きりの時間。出会ってから割り勘にするまでの長い余白が面白い。余計な力(=説明?)が入っていない。だからこそ生まれる伸びやかな詩情の中に、歌と読者の物語が交差する。
冒頭で謎のストレッチの比喩を出した上で、ストレッチの歌を引いてしまうけれど、この歌の力の抜き方も絶妙だと思う。引き算がうまいんだよなあ。誰でも似たような経験をしているがゆえに、細かいディテールがなくてもギリギリ成立する、そんな青春時代の憧憬を、しかしどこか世界の外側にあるかのようにドライに提示してくる感じ。逆説的にそれは一首が一篇の短編小説になったかのようなふくらみを与えている。
僕が歌を始めたころからずっと読み続けている、初期の千葉聡さんのような雰囲気を感じさせる歌もあって、それも好きだなあと感心した。
『微熱体』は、モザイクのように散りばめられた固有の友人たちの物語と、「僕」の物語が重なり合って、互いに分かちがたく結びついているような歌集だと思う。一方、『レテ/移動祝祭日』にある物語は、おそらく誰のものでもないけれど、だからこそ「負けてから優しくなった先輩」や「釣り竿をおれに預けて立ちションをする友」のようなキャラクターがはっきりと陰影をもちながら輝いていて、しかもその影の外側にいる読者が引っ張り込まれていく。「みんなが主役」なのが『微熱体』なら、「(読者も含めて)主役のいない群像劇」なのが『レテ/移動祝祭日』かもしれない。
実際のところ、引き算をし過ぎて(力を抜き過ぎて?)当たり前の提示に止まってしまっている歌も多いので、このあたりの調整は作者の課題なのかもしれないけれど、(あと欲を言えばフラットでない作者の屈託や、固有の物語をもう少し見たかったような気もするけれど)、全体を通じて良質な詩情、知的なモチーフの連続に関心しながら読んだ一冊でした。
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