今も私の指針となっている洛南高校の校訓と四弘誓願(しぐぜいがん)。施された教育は生涯をかけて探究すべきもの。
洛南高校で学んだことで、今も私の指針となっているのが校訓だ。この3つは三帰依(さんきえ)という、仏教徒の根本的な態度や生き方を示したものの現代語訳であるため、普遍のものともいえ、非常に深いテーマであるが、私なりの解釈を踏まえ、さらりと述べる。
【校訓(三帰依)】
1.自己を尊重せよ
2.真理を探究せよ
3.社会に献身せよ
まず、1。すべての源は自己から始まる、ということである。ある出来事に対して、それが良いことであろうが、そうでないことであっても、すべては自己の捉え方(解釈)から始まる。今、目の前にあることは、自己が導いたことである。逆にいえば、自己が存在しなければ、その出来事もない。ゆえに「自己」とは少なくとも自分にとっては、万物の始まりであり、創造の源だ。その自己を尊重することからすべてが始まる。デカルトの有名な言葉、我思う故に我在り。また、卵が先か鶏が先か、と類似点がある。自己と自己の前に出現する万物は不可分であり、自己の創り出した創造物でもあるのだ。
私は元来、自己肯定感の低い性格だ。喘息持ちで、自信のない、恥ずかしがり屋で弱気な性格である。少なくとも、この1、を自分の生きる指針として持つことで、自己を尊重する意識が生まれる。私の性格に沿った言い方をすれば、自己を尊重していいんだね、という心の持ちようである。
次に、2。真理への探究は、本当に好奇心をそそる、一生かけてやっていく価値のあることだ。ある人が言うには、宇宙を含むこの世界全体のなかで、人類が解明できていることなど3%に過ぎない。つまり97%は未解明である、ということだ。つまり、97%の中に人類がまだ手にしていない知恵(富)が内在している。後述する四弘誓願の1つ「法門無尽誓願学(ほうもんむじんせいがんがく)」に繋がる。宇宙に内在する富を引き出すことと、真理を探究せよ、は私の中では同義である。ここはポイントで、今回の投稿の中で一番大事なことだ。私が暗示にかかりやすい、超素直人間であることは何度か述べてきた。だが、暗示にかかって良いことと、いけないことは、この「真理」の捉え方にある。真理とは、97%が解明されていない宇宙にあっては、これまで言っていたことと、真逆のことに方向転換することも、起こり得るので、”その時点で最も真理に近いと思われること”という意味で良いのだ。誠実な研究者は、新たな真実に従い、自己の論調を変える。これが研究者の誠実さだ。しかし、コロコロ論調を変えるのは考えが足りない、と言わざるを得ない。朝令暮改は褒められたことではない。与えられた与件に基づき、考えを巡らせ、蓋然性を導き出すこと。蓋然性とは、そうと考えるのが妥当なこと、である。ここに至るには、創造力(右脳)を働かせた後、論理的思考(左脳)を用いる。もう少し詳述する。
私の最終学歴はビジネス・ブレークスルー大学院大学(経営管理専攻)だ。英語名(当時)は、Kennichi Ohmae Graduate School of Business 。大前研一学長が設立した大学院である。この大学院で学んだことは、ずっと後の投稿で述べるが、大前学長がこんなことを言われたと同窓生に聞いた。
「ビジネスっていうものは、上手くいくか、いかないか、は直観でわかるものだ。だが、直観だというと誰も信じないので、論理的説明を加えているだけだ。」
論理的思考、ロジックに基づいた説明(コミュニケーション)力は、世界の共通言語と大前学長は常々述べられている。この源泉が、直観にあることはほとんど知られていないのではなかろうか。同級生、デカした、である。
直観とは、天から降りてくるものである。閃き、とか、降りてきた、という表現を使う人を目にする。つまり、我々人類は、宇宙という巨大な情報源に思考(脳内から伸びるアンタカラーナ)によって、アクセスできる、高度に進化した生き物である。多くの人はそれに気づいていないだけだ。アクセスするのは、瞑想や経を唱えること。いずれにしても無心になり、情報を受け入れる態勢を採ることだ。
今、世界は、資本主義が支配していることは疑いようがない。民主主義という表看板の裏で、資本、つまりおカネを持つ者が、政治、経済、メディア、知的財産、土地、天然資源、人類の向かう方向性、を支配している。あと、10年もしたら、地球は、イーロン・マスク、ジェフ・ぺゾス、ビッグテック、中国共産党、の支配下になる。すべてのプラットフォームが、これらの提供するシステムの下で動くこととなる。本当にそれで良いのか?を私は常々考えている。良い訳ないだろ。このサービスを使うたびに、チャリン、チャリンと日本の外におカネが流れていくのだ。では勝ち目は無いのか?となる。だからこそ、真理を探究せよ=法門無尽誓願学、なのだ。AIが全人類の英知の総和を上回る、シンギュラリティといわれる時代が早晩やってくると言われているが、ボーっと生きている、チコちゃんに怒られる類の人間は、完全に支配される側に回る。だが、本当に、真理を探究し、より優れた真理を宇宙から採り出すことに成功した人間は、この状況を反転させられる可能性がある。だからこそ、私は挑戦を続けているのだ。
3については、言わずもがな、である。人の成長は、自分から始まり、他の人々への具体的な貢献で完結する(アチーブメント株式会社)。
レベル1(知識):知る
レベル2(理解):分かる
レベル3(実践):行う
レベル4(習慣):できる
レベル5(貢献):分かち合う
校訓の1、2は、自己完成論理(自己愛)であり、上記のレベル1~4に相当する。レベル5が奉仕の論理(隣人愛)である。実は、学校教育、とくに受験のための勉強は、レベル1でしかない。勘のいい人は、レベル1をレベル2に昇華させて人生を豊かにしようとするが、覚えたことを受験が終った後、ほとんど忘れてしまうような勉強なら、レベル1にも満たない。レベル5になって、やっとビジネスとして成立する。他人の役に立ってはじめて富はもたらされるからだ。ここがわかっていないと、全くトンチンカンな事業を考えてしまう。これまで述べた、校訓(三帰依)は、すべての物事の道理であり、人生の要諦でもある。タイトルに書いたが、施された教育は生涯をかけて探究すべきもの、というとても簡単に結論が出るものでは無いのだ。私もまだ、この教えを探究する過程にあり、ここに述べたことも”現時点での”というカッコ書きが付く。
重い内容の投稿となったが、ついでに四弘誓願についても述べておく。
【四弘誓願(しぐぜいがん)】
衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)
煩悩無尽誓願断(ぼんのうむしゅせいがんだん)
法門無尽誓願学(ほうもんむじんせいがんがく)
仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)
生きとし生けるものが幸せになるために、むさぼり・いかり・おろかさに流されず、この世界 あるがままの真実に学び、人格向上の道を、ともどもに歩みたい。(武蔵野大学通信教育部)
洛南高校のある東寺では、毎月21日は御影供(みえいく)がある。真言宗の開祖である弘法大師空海の月命日に、報恩感謝の供養を行う法会だ。学校は半休、だったと思う。校長先生の話を聞いて午後休。私は水泳部の練習があるが、午後イチから始まるので、夕方は少しゆっくりできる。こうした校長先生からの話を受けるときに、必ず、この四弘誓願がメロディ付きで流れる。1学年:700名の洛南校生の中で、四弘誓願のことを記憶している者が何人居るだろうか?ほとんどは、あのメロディね、そんなんあったな、という程度だと想像する。さしずめ、そんなものだろう。卒業後、40年近く経って、四弘誓願のことを人生をかけて探究しようとしている者は、仏教を生業にしている者以外は皆無だろう。ここに私の特異性がある。上場を目指し起業する者が、上場までたどり着くのは2者/10,000、であると聞いたことがある。10,000は、洛南校生15期分に当たる。15年に2人。そんなもんだ。洛南高校はある種の洗脳(仏教校なので当たり前なのだ)が、学業へのモティベーションを支える。私を含め多くは、暗黒の高校時代と感じ、卒業後近寄らないものだと思う。私は、確かに33年間、近寄ることはほぼ無かったが、心は離れずにいた。校訓(三帰依)、四弘誓願、もっと多くのこともあった。般若心経はまさにそうだ。私は、耳鳴りがしたとき、体調がすぐれないとき、イヤな印象(波動)を感じる人に会ったとき、パートナーとぶつかったとき、般若心経を唱える。耳鳴りは、最初の数十文字で消える。般若心経の文字数は262、といわれている。大乗仏教のエッセンスを凝縮したもので、仏典を求めてインドに赴いた唐の玄奘三蔵が持ち帰ったものを、弘法大師空海が、日本版にアレンジして、日本の持ち込んだものである。般若心経のことを述べ出すと、投稿が終わらないので割愛するが、要は、大宇宙の真理を述べ、「文字(形)」と「読み(音)」で、そのパワーを表現するものだ。私の解釈では、この内容は量子物理学のことが書いてある。20世紀になって学問として確立した領域のものを、2千年前に説いている、という事実。もう、敬服するしかない話である。
このように、洛南高校で教わったことは、多々あり、現在の私を支えている。もっとたくさんの教えもあっただろうが、私は、特に真理に近づくために特に必要な、四弘誓願と般若心経にこだわり、人生をかけて学びを続けている。般若心経で有名な一節、羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶(ギャーテー、ギャーテー、ハーラーギャーテー、ハラソーギャーテー、ボージーソワカ)の意味は、「ゆきましょう、ゆきましょう、捉われなき世界へ、素晴らしいところへ、ひとり残らずゆきましょう、悟りよ幸あれ」ということ。これが、262文字の最後の結びで登場するところが、粋なところ。
262文字を人生とするなら、終盤になってなお、悟りに向かってすすみましょう、という教えだ。
世間でいう55歳は、定年間近の、たそがれの時期かも知れないが、真理を探究する道のりでは、まだたったの55年しか経っていないと解釈できる。一生の指針となる教えをいただけた洛南高校の教育。こうして筆をとっていると、改めてその素晴らしさを感じるのだ。この教育の最高の受益者は私であり、本当に、地球規模の社会に献身するレベル5まで、まだまだ、学びと行動が必要である。だが、この貢献こそが、施された教育に対する恩返しであると、私は思う。