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東京の真ん中、江戸城(皇居)を極めませんか その5(千鳥ケ淵から桜田門へ)
レトロもレトロ、東京の真ん中の真ん中の江戸城です。誰でも知っているし定番中の定番で情報も溢れているんですが、外せないポイントでもあり真っ先の載せます。「江戸城を極める」ということで、皆さんも案外見落としているところもあると思うので、一読頂けたら嬉しいです。同時に、江戸城のみならず内堀の周囲にある近代の遺構も沢山あるので、一緒に取り上げていきます。
その5(千鳥ケ淵から桜田門へ)まで来ました。これで、内堀を一周したことになります。因みに「江戸城を極める」は以下のようになっています。外堀については後日レポートします。
その1 (江戸城本丸から三の丸)
その2 (内堀 和田倉門から外桜田門へ)
その3 (内堀 平川門から清水門へ)
その4 (内堀 北の丸から田安門へ)
その5 (内堀 千鳥ケ淵から桜田門へ) 本記事です。
マップが見えない方(iPhoneのsafariでは警告が出る)はこちらのリンクから。
田安門を出て、千鳥ヶ淵から半蔵門、三宅坂を下って桜田門までを歩きました。
千鳥ケ淵戦没者墓苑
千鳥ケ淵戦没者墓苑は1959年(昭和34年)建設され、無名戦没者の遺骨を埋葬してある宗教宗派に属さない施設です。昭和28年より海外の遺骨収集が開始され、戦没者の遺骨370,108柱が納骨室に納められ、「無名戦没者の墓」であるとともに慰霊追悼のための施設になっています。
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以前は「無名戦士の墓」と呼ばれていたような記憶があります。靖国神社が宗教、政治の影がついてまわるのに対し、ここは訪れる人も少なく、静寂を保ち、宗教色も感じない施設になっています。
高射砲陣地跡
戦争末期に空襲から皇居を防衛するために高射砲の陣地が築かれていました。その高射砲の砲台座7基が堀の土手に現存しています。
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「こんな場所に」という感じで、廃墟に訪れる感覚あります。ただこれだけでは、あたかも公園のベンチのようにしか見えないのが少し残念で、当時の状況を伝えるためにも、もう少し整備して周知された方がいいと思いました。
英国大使館
竣工年:1930年(昭和5年) 設計:英国工務省。イギリスは明治政府とのつながりが深く、早くから江戸城に近いこの地を与えられていました。レンガ造だった建物が関東大震災により倒壊し、昭和初期に英国工務省の設計により鉄筋コンクリート造石貼りの現在の建物が建てられました。旗本水野兵部の屋敷跡で、明治政府から永久に貸与されました。東京の大使館として建てられたものの中では唯一の戦前の建築です。
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江戸城半蔵門
家康が入府したとき、城の西口にあたるここが地形的にもっとも守りが弱かったといわれています。家康の信頼あつい服部半蔵の伊賀衆をこの門の守備にあてました。したがって半蔵門と呼ばれるようになったというのが通説です。空襲で旧来の門は焼失してしまい、現在の門は和田倉門の高麗門を移築したものです。隠居した先代将軍や将軍継嗣などの住居とされた吹上御庭に通じていました。
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この一帯は田原藩三宅家の上屋敷があったところです。三宅坂は皇居内堀に沿って続く緩やかな坂道で、江戸時代から景勝地として知られていました。個人的にも半蔵門から半蔵濠越しに日比谷方面を見下ろした景観は「東京のベスト景観」だと思っています。三宅坂の途中、最高裁判所の一角に三宅坂小公園があります。
渡辺崋山誕生地
渡辺崋山は江戸後期の画家、洋学者。田原藩邸で生まれました。武士、画家であり、田原藩家老にまでなりました。高野長英らと尚歯会を結成して洋学を研究し、蛮社の獄に連座。国許に蟄居中に自殺しました。洋画に傾倒して独自の様式を確立、すぐれた肖像画を残しました。
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平和の群像 (旧寺内正毅総理大臣像)
最高裁判所の一角になぜか台座に似合わない裸婦像が。戦後に電通が建設した広告功労者顕彰の記念碑ということです。この台座にはかつて寺内元帥騎馬像があり、後方には陸軍航空本部があったということです。戦中の金属回収で撤去されてしまったそうです。
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更に三宅坂を下る途中に、説明板だけですが、柳の井があります。桜田濠の土手下に井戸があり、傍らに柳の木にちなんで、柳の井と呼ばれていました。 江戸時代に名水として知られ、通行人に喜ばれていたといいます。少し歩くと、次に国会前庭があります。
彦根藩井伊家上屋敷/加藤清正邸跡 (国会前庭)
幕末の桜田門外の変の際には井伊直弼の駕籠が出発したのもこの上屋敷からだということです。
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桜の井 (国会前庭)
広重の錦絵に彦根藩邸の門の前に井戸が描かれています。「桜の井」は名水井戸として知られた江戸の名所で、ここは加藤清正邸跡で、清正が掘った井戸と伝えられています。
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日本水準原点 (国会前庭)工年:1891年(明治24年) 設計:佐立七次郎
竣工年:1891年(明治24年) 設計:佐立七次郎。
かつて参謀本部陸地測量部(国土地理院の前身)があった痕跡です。石造による小規模ですがローマ風神殿建築に倣い、ドーリア式オーダー(配列形式)をもつ本格的な様式で明治期の数少ない近代洋風建築として貴重なものです。菊紋と右から「大日本帝國」と刻まれている数少ない公的建造物でもあります。
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この国会前庭に旧陸軍の参謀本部があったという痕跡とのこと。憲政記念館の方に「この地の由来碑」があるということでしたが、記念館の工事で確認できませんでした。更に警視庁庁舎を見ながら外桜田門に至ります。
「江戸城を極める」ということでは、外堀を辿るつもりです。頑張って、歩いて確認していきたいと思っています。
この記事は、私の「東京レトロ街歩きガイド&マップ」サイトのテーマ別「Th-01江戸城を極める」を基に街歩きをしています。記事の内容以外にも街歩き検証はまだですが、外堀を含めて江戸城のAll in Oneのガイド&マップになっています。こちらもぜひご覧ください。
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