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歴史が積み重なった東京の深層を知りたい。今まで素通りしていた東京のレトロである江戸史跡、明治、大正、昭和の近代遺構を実際に歩いて、この目で確かめたい。そう考え、東京のレトロに焦点を当てた街歩き情報を発信します。記事の読者の方が一人でも街歩きできるようにマップ情報も充実。
東京の街並みに溶け込んでいる明治、大正、昭和の近代レトロ建築に焦点を当てます。重厚なレンガ建築や洋館はもちろん、看板建築、町屋までを探訪する街歩き情報を発信します。記事の読者の方が一人でも街歩きできるようにマップ情報も充実。
今回歩いた広尾や隣接する南麻布はもともと、武家屋敷の街でした。明治維新後には屋敷の跡地に大使館が立地するようになり、インターナショナルな雰囲気の街へと変わって行きました。また天皇家や政治家など、各界の著名人を輩出している名門校が多くあります。東京の中でもお洒落でハイソ、インターナショナルな街といえます。 とはいえ、江戸から明治、大正、昭和の痕跡も点在しています。そんな歴史の重層を巡り、最後は毛利甲斐守邸だった六本木ヒルズまでを歩きます。 マップが見えない方(iPhoneの
今回歩いた新宿御苑の歴史を紐解くと… 甲州街道の宿場町として誕生したのが「内藤新宿」です。新宿とは、高井戸宿が遠いため追加で設けられた新しい宿場という意味。また信州高遠藩主の内藤家が幕府に返上した屋敷の一部に宿場町が造られたことが所以です。ちょうど新宿御苑の大木戸門入り口にあたる場所に四谷大木戸がありました。 江戸時代に信州高遠藩主内藤家の屋敷があったこの地に、1879年(明治12年)に宮内省により新宿植物御苑が開設され、のちに新宿御苑となったのは明治39年のことです。この
今回は東京の中でもあまり注目されない地味な印象が強い北区に焦点を当て、明治、大正、昭和のレトロ建築を探訪しました。 北区の中心的な町が王子です。 王子の飛鳥山は徳川吉宗が享保の改革でサクラの苗木を植えて公園として整備・造成を行い、江戸の桜の名所になりました。ここに居を構えていたのが古河財閥の古河虎之助、資本主義の父といわれる渋沢栄一でした。 一方で、板橋、十条、赤羽、王子は戦前には陸軍造兵廠、陸軍被服本廠がおかれて一帯は広大な軍事工場地帯でもあったという特色のあるエリアで
「築地のレトロ建築(近代レトロ建築-05)」の続編になります。築地から、さらに佃大橋で佃に渡り、月島までのレトロ建築を探して歩きました。 佃は佃島と呼ばれ、もともとは隅田川河口にあった干潟を埋め立ててできた場所です。1590年に摂津国佃村(大阪)の漁師たちが、徳川家康の命を受け、江戸へと移り住んで作った街と言われ、ここで江戸名物の佃煮が生まれたといいます。 現代の佃や月島は、昔ながらの下町情緒あふれる街並みと、高層マンションという新旧が混在するユニークな雰囲気を持った地域に
本郷といえば東京大学が頭に浮かぶし、樋口一葉や宮沢賢治、夏目漱石などなど、多くの文芸人が居を構えた文学の町でもあり、見どころ満載、奥が深いです。今回は、手始めとして本郷の記事の第一弾、本郷三丁目駅を起点に江戸五街道の一つである中山道を北に下ってほんの片道1kmほどのチョイ歩きです。 それでも見どころはたくさんありました。 マップが見えない方(iPhoneのsafariでは警告が出る)はこちらのリンクから。 その昔、江戸時代では「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」と川柳で
万世橋界隈、神田須田町の周辺は明治から大正にかけて東京で最も賑やかだった街だったというのを知っていましたか。その中心となったのが万世橋駅でした。 日本橋・銀座と並んで最も賑やかだった街の名残りで多くの老舗が須田町には残っています。その中で震災後に建てられ、空襲を乗り越えて現在でも当時のまま残っている老舗の町屋や看板建築を巡りました。残念ながら夏目漱石ゆかりの「松栄亭 (洋食)」やあの有名な「かんだ藪そば」は建て替わってしまったのは残念です。 万世橋駅は中央線(当時は甲武鉄
東京の都心と言われるエリアは開発も進み、道路とビルだらけで、緑が少ないというのも事実だと思います。しかし、都心にも江戸から続く古い寺社や大名屋敷の痕跡が保存されていて、探してみると案外古木、巨木が見つかります。都市化の中、ビルに囲まれ排気ガスにまみれながらも、健気に都会の喧騒の中で生き抜いているのです。田舎や郊外ではなく、都心にあるからこそ貴重なんだと気付かされます。この目で見ておきたいと思ってきました。 こうした都内の古木は関東大震災の火災や東京大空襲にも耐えてきた証拠で
神田神保町といえば古本屋の町。 千代田区のホームページなどを紐解くと、神保町は江戸城の北側に位置し武家屋敷街だったが、町名は越中の戦国大名の流れをくむ旗本・神保家の屋敷があったことが由来とあります。戦前の東京市時代は「神田区」に属し、戦後に千代田区となった際に「神田神保町」となりました。明治から昭和初期にかけて、駿河台から神保町、一ツ橋にかけての地域には大学が集結し、古本屋や出版社が並ぶようになり、現在の姿を形作りました。 東京大空襲などで被害に見舞われた都心部にあって、神
御茶ノ水駅周辺は舌状に延びた本郷台地の端にあたります。聖橋から見下ろすと、台地を真っ二つに分断して神田川を通す仙台濠の掘削大工事の跡が見て取れ、お茶の水を代表する特徴的な地形が確認できます。 御茶ノ水駅の上で神田川をまたぐ聖橋は、湯島聖堂とニコライ堂を結ぶ橋であることから名がつけられました。 神田川と鉄道が交差するおなじみの景色です。神田山を真っ二つに分断して掘削するという大工事。仙台伊達藩による大規模な土木工事で生み出された、人工の渓谷なのです。昌平橋は1691年(元禄
谷中は「谷根千」と言われる下町の街歩きで人気のエリアですが、ネットやガイド本の詳しい情報は主に谷中銀座や食べ歩き中心です。 谷中の魅力はそれだけではありません。谷中は「寺町」と呼ばれるように、60以上の仏教の寺院が集中している古い下町です。上野戦争で罹災したものの、震災や空襲では被害が少なく、江戸以来の古い町屋や狭い路地の町並みが今でも残っています。そのような歴史に裏付けられた魅力を持った街、谷中を歩きます。 なお谷中の魅力は多く、この街歩き記事では史跡、遺構、建築などに絞
目白駅というと、山手線の中では地味な存在ながら隣の池袋とは違って、すぐ頭に浮かぶのは学習院大学や日本女子大学などちょっとアカデミックで、少し上品なイメージがありませんか。 学習院大学などは後日、詳細に見てレポートしていく予定ですが、今回はそんな目白でも山手線の少し外側に広がる住宅地の中でひっそり、目立たずに残るレトロ建築をピックアップして訪れました。池袋側にある自由学園明日館は「超」が付くくらい有名ですが、そのほかの建築も見逃せません。そんなに広くないエリアに点在しているの
現在の東京ドーム、小石川後楽園一帯は、明治期には巨大な軍需工場地帯だったというのをご存知でしょうか。 江戸から明治になると、江戸の大名屋敷跡の広大な土地は明治政府に収用され、富国強兵の政策のもとで多くは陸軍の用地となりました。かつて東京にあった軍施設の面積は世界でも類を見ないほどで、まさに東京は首都であると同時に軍都でもありました。 現在の東京ドーム、小石川後楽園、文京区役所、礫川公園、都戦没者霊苑、中央大学を含む広大な一帯は元は水戸徳川家の屋敷跡でした。ここに陸軍砲兵工
銀座に町屋や看板建築が残っている?…という疑問も当然ですが、残っているんです。銀座と言っても昭和通りから築地寄りの新富町あたりですが、まだまだ町屋や看板建築が見受けられます。しかし東京の中でも地価の高いエリアなので再開発も進み、震災や空襲をくぐり抜けた看板建築や町屋も確実に減ってきています。消滅してしまう前に、銀座界隈の今に残る町屋、看板建築を歩いて探索します。 マップが見えない方(iPhoneのsafariでは警告が出る)はこちらのリンクから。 酒蔵 秩父錦 築年が1
多くの人がショッピングで行き交う華やかな銀座。新しいビルが並ぶ街並みの中で、ひときわ渋く存在感を示しているのが点在する近代レトロ建築です。銀座を代表する和光時計台は別格としても、実はあまり知られていないレトロ建築が数多く存在しているのですが、気がつく人は多くはありません。 今回はそんな銀座の近代レトロ建築に焦点を絞って銀ブラします。 マップが見えない方(iPhoneのsafariでは警告が出る)はこちらのリンクから。 前回の記事では京橋から歩いてきているので、その続きで
この記事は「場外市場だけではない。近代が始まった築地を歩く」の続編として、近代のレトロ建築に焦点を絞り築地の街歩きをしたものです。 築地、特に明石町エリアは、明治期に築地外国人居留地が設置されたという経緯もあり、日本の近代創成期の遺構やレトロ建築が見逃せません。 また、都内にある町屋や看板建築は東京大空襲で多くが焼失しましたが、築地6丁目、7丁目あたりは焼失を免れた町屋や看板建築がまだ多く残っています。これらは老朽化による建替えや再開発、持ち主の高齢化もあり、どんどん取り
築地といえば築地市場、場外市場を思い浮かべる人も多い筈ですが、そればかりではありません。 江戸からの歴史の積み重ねがあります。築地は、江戸時代1657年(明暦3年)の明暦の大火の際に焼失した浅草御門南の西本願寺(現在の築地本願寺)の代替地として、佃島の住人によって文字通り土地が造成されたものです。その後、浄土真宗の寺院や墓地が次々と建立され、周辺は寺町のようになりました。 更に江戸末期には、幕府は軍事力増強を目的として築地に講武所を設け、後に海軍部門の軍艦操練所を設置、勝海