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無記名読書感想文第2回 「ペルソナ」 多和田葉子著

私は僕であり、俺であったはずなのに私 By

第二回今回は多和田葉子さんのペルソナ、この作品は犬の婿入りという短編集に収録されている作品で、僕は芥川賞も受賞した犬の婿入りよりもこちらのペルソナの方が良い作品だと感じた。

 セオンリョン・キムがそんなことをするはずがないと皆が口をそろえて言う。当然私もそう思った。虚言癖の戯言だと、しかし誰かが言う。「アジア人は表情がないから残忍だ」そして誰かは「私の友達はそんなんじゃない」
 私は弟とともにドイツで暮らしている。二人とも研究のためだ。そしてこんな気分の時、つまり私が疎外されているとか、そうではないとかそう言うときに私は弟と話した。
 その日、私は何かを誤魔化すように出かける。向かった家庭教師として行っている日本人宅でも彼らの言動からまた「日本人は」「ドイツ人は」人種の隔たりを感じるのだ、そして私はその宅の夫がしきりに紹介する偽物のお面を被り、外に出かける。誰もが私を訝し気に見るが、私は自由だった。

あらすじ written by me

 いつも自分への理解が追い付かない。僕は僕が保持しているはずで、僕以外の誰かが僕を操っているはずもないのに、僕の操る僕が何か分からない。それと同時に、僕は僕の為に存在するのではなく、誰かに消費されるために存在するのだろうかと感じる。
 このペルソナという小説の中にはたくさんの人種が現れる。日本人、ドイツ人、韓国人、ベトナム人、、、とか。しかしこれはおかしいはずだ。人間は人間だし、遠い昔人間の祖先は皆一様にアフリカで誕生したはずだ。サピア=ウォーフの仮説も否定され、ユクスキュルの環世界しか僕たち人間には残っていないはずだ。つまり人間と人間以外は見える世界が違くとも、人間同士ではだいたい同じ世界が見えるはずだ。なのにどうして僕らは違うのだろう。
 そうは言っても僕らは2種の性を持ち(生物学的に単純化した場合)、たいてい遺伝子を配合させて子孫を残す。そのため同じ人間はいない。だからこそ僕らはそれぞれ違う。のにもかかわらず、たいていの場合僕らの違いは生物的な要素ではなく、社会的な要素によって決定されていないのだろうか。例えば学校で僕らは役を演じる。優等生の学級委員長、ヤンキー、ボッチ、カースト、なぜかどれも似たようなこてこてのキャラがどの学校にもいる。そして先生と生徒。どこでも同じようなやり取りがなされる。きっとこれには理由があるのだろう。例えばゴッフマンの唱えたドラマツルギーとか。そしてこのペルソナでは主人公が日本人として、またはマイノリティとして現れ、そして偏ったペルソナを他者から付与され、また誰もがそれに従っている。弟と話すときだってそうだ。姉と弟という配役の中で私は安心しているし、弟もまた自分は達観しているフリをしてまた、自分が知らぬうちにペルソナを自分に張り付けている。
 
 結局のところ、誰しも自分で自分を保っていないのだ。誰かが私を制御しているし、私の価値を見出している。逆もまた然り。それでもそんな束縛から道子(主人公)も僕も抜け出したいと思っているんだ。
 道子はラストシーンで仮面を被り自由になる。ペルソナの本来の意味は仮面だ。仮面をつけることで私は私のペルソナである、日本人あるいはマイノリティを脱ぎ捨て自由になることができる。皮肉なことに、私たちの社会的なペルソナは透明なのにも関わず、物理的だ。だからこそペルソナの上に不透明の仮面を与えてあげなければいけない。
 でもその先はどうすればいいのだろう。そもそも最初に与えられた役は誰が決めて、なぜ僕がそうしなければならなかったのだろう。僕は僕であったはずなのに、誰かに強制されて私になるみたいに、僕は僕を保持したいのに僕を保持するために仮面を被り僕以外にならないといけない。それもそれで嫌だな。なら僕は一体どうすればいいのだろうか。と文章に書いたところで結局また誰かのための自分になっているんだろうな…

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