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佐藤にもアイデンティティがあってだな。選択的夫婦別姓制度に思うこと

私は結婚前、佐藤だった。
日本全国苗字ランキングの1位を行ったり来たりしている、あの佐藤だ。

私は《平凡代表》みたいなこの名字が好きではなかった。
夫と結婚した時、名字が変わるのが嬉しかった。
好きな人と同じ名字を名乗れることは嬉しかったし、佐藤に比べれば希少度が多少増すのも嬉しかった。

ただ、職場で夫の姓で呼ばれることに違和感を感じるようになった。
そこで気づいたのだが、佐藤という名字だと学校や職場に他の佐藤さんがいるから、下の名前で呼ばれることが多かったのだ。

私は佐藤という名字に何の思い入れも無いと思っていたけれど、私のアイデンティティは確実に《佐藤ココロ》にあると感じた。

更に、義母と夫から「こちらの人間になった」と言われた時、「私は生まれてから死ぬまで佐藤ココロじゃ!」という思いが強くなったのだった。



あれは姉が初出産を控えていたときのこと。
出産のために姉は実家にいたのだが、両親が旅行に行くということで、1日だけ私が実家で姉と過ごすことになった。
その予定が決まった後、同じ日に夫の祖母の三回忌で親族が集まることになった。
私は実家に行くのでそちらには行けないと言うと、義母と夫から
「あなたはもうこちらの人間なんだから、こちらを優先するのが当然」
と言われたのだ。

え?祖母の危篤じゃなくて、三回忌よ?
そもそもこっちが先に決まってたんだし、これから新しい命を生み出そうとしている姉なのよ?

結局、先に予定が決まっていたということを理由に私は三回忌に参加せず、実家で姉と過ごした。

他にも、私の親族のお葬式や結婚式があると、帰り道に
「あのやり方はおかしい。普通はこうする。あなたにはあれが普通だと思って欲しく無い」
などと言われ、とても嫌な気分を味わうことになった。

私は夫と結婚したけれど、そっちの人間になった覚えはない。
なぜそっちの習慣が『普通』で、こちらが合わせないといけないのか。


私の目から見ても、佐藤家に対しておかしいと思う部分は多々ある。
でも私の目から見れば、そっち側だっておかしなところは沢山ある。
家庭それぞれに『普通』が存在し、他人から見たら『変』なのはよくある事。
だからって、そっちの家庭を変えようなんて思わない。思うわけがない。
私と夫で新しい家庭を築いたのだから、二人で擦り合わせていくものであるはずだ。


姓の変更は「嫁入り」「婿入り」と紐づいており、それによって精神的な家庭侵略が起こってしまうことも大きな問題だと思う。



夫婦別姓について「どっちでも良く無い?」「それぞれが話し合って、どちらかの名字にすれば良いじゃん」という意見をよく見聞きする。

でも、結婚する時にどちらの名字に統一するか話し合うカップルはどれだけいるだろうか?

夫の父親は、婿入りだった。
義母には兄が二人いるし、名字だって別に珍しいものでもないのだが、婿入りじゃないと結婚させないと親から言われたそうなのだ。
だから夫は身近に『姓を変えた男性』がいた。
夫の両親は夫が幼い頃に離婚しているが、婿入りだったので義母の姓は変わらなかった。
そんな環境で育った夫でさえ、結婚する時にどちらの姓にするかなんて話し合わなかった。
それどころか、もし私が「佐藤にして欲しい」と主張していたら、夫の性格上結婚自体諦めていた可能性が高いと思う。

『婿入り』には自由を奪われるような、夫婦に主従関係が生まれるような感覚があって抵抗があるという男性が多いはず。
『嫁入り』であっても同じことが起きているのに、それに関しては「そういうもの」と片付けられてしまうのだ。




子供の姓をどうするとか、子供のアイデンティティに影響が出るとか、そういうところはしっかり考えていかなければいけない。
でもちゃんと女性のアイデンティティについても考えて、制度を実現して欲しいと思う。


夫婦別姓について共感した記事を共有します。




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