結論ありきにならないことの大切さ|「訂正可能性の哲学」(東浩紀)
哲学書なのに新書並みにさくさく読めてとても面白かったです。「結論ありき」にならないことの大切さを、ウィトゲンシュタインやルソーなどの過去の哲学者をわかりやすく紐解きながら語っていて、哲学者全部盛り感もあります。異分子があらわれたときに、「異常」なものを排除したり説教したりして、自分たちを「正しい」側に置き続けるのはラクなんですけど、袋小路なんですよね。また、不登校という異分子と出会ってしまった親御さんにとってもヒント(訂正可能性に開かれた対話)がいっぱいある哲学書でした。
たしかに、自分を「正しい」側に置いておくほうがメンタル的にラクだし、訂正するなんてめどくさいし、生活がかかっていたりすると引くに引けないときもあります。とはいえ、異分子を排除するコミュニティは持続可能性がありません(だからこそ訂正可能性に開かれた対話をすべき)。
なぜか。まずはウィトゲンシュタインからこの話は始まります。
ウィトゲンシュタインの言語ゲーム
言語ゲームの事後的な訂正可能性は、コミュニケーションの本質なので、ありとあらゆる人間関係にあてはまります。なので、いつまでたっても意味は確定せず、後出しで「実はあれはね……」と遡及的にちゃぶ台返しされる可能性があります。子どものためによかれと思ってやってきたことが、事後的に「毒親」とか「教育虐待」とか指摘されてしまう可能性はつねにあります。
しかしながら、人間のコミュニケーションが難癖やクレームを原理的に排除できないというウィトゲンシュタインやクリプキの議論は、厄介さだけではなく、結論ありきに染まった集団を「空気読まないちゃぶ台返し」でひっくり返せる(訂正できる)余地を残してもいます。
訂正できる余地が、ガバナンス(統治)を強くする
この本の面白さは、この「訂正できる余地」について、あえて肯定的な評価を与えているところなんですね。しかもミクロな人間関係だけでなく、マクロな国家全体の統治においてさえも当てはめています。
例えば、著者は、社会主義がぽしゃった後の人類が信じることができる「大きな物語」(理想の社会のあるべき姿みたいなもの)として、AIが滅茶苦茶賢くなって最適な政策を出力し続ける「人工知能民主主義」のヴィジョンが台頭していると、現代社会をとらえています。
とはいえ、この新しい「大きな物語」は手放しで喜べるものではなさそうです。仮にAI(人工知能)が賢くなって「最適な政策」を出力し続ける時代になったとしても、そこからこぼれ落ちる困った人間は必ずでてくるからです。
そして著者はその「クレーマーによる空気読まないちゃぶ台返し」こそが、過ちを訂正できる力であり、民主主義の健全さを支えている力であるとポジティブに評価しています。このあたりの、ミクロな言語ゲームの限界がマクロな政治の話にアクロバティックにつながってく論理は、読んでいてかなりテンションあがりました。
もうちょっと具体例を出すと、AIによるプロファイリングが進めば進むほど、ひとりひとりがどんどん不可視の統計的カテゴリーにおとしこまれていき、釈明の余地なく、不利益を被ることもあります。これではとても健全なガバナンス(統治)があるとはいえないです。
バフチン「対話は本質的に終わりようがないし、終わってはならない」
訂正可能性はコミュニケーションの原理的な限界であり、逃れようのないものですが、むしろこの訂正可能性に開かれた対話を積極的に肯定しているのが、ロシアの思想家であるバフチンです。
ちなみに、このバフチンの思想に影響を受けたフィンランド発祥のメンタルケアの技法(オープンダイアローグ)は受け継がれており、日本でも徐々に広がりつつあります。
不登校という異分子に出会ったしまったときこそ、訂正可能性に開かれた対話が必要
不登校の親御さんにとってみたら、自分の子どもの状態は到底受け入れることができない異分子であり、何考えてんだか訳が分からない他者であります。とはいえ、こっちのほうが人生の先輩であり、どうしたらよいか解決法も知っているからそれを教えてやる、と上から目線で接しても、まったくうまくいきません。
なぜか。当事者からすると、結論ありきで説教したり説得したりしても、そんなことは百も承知で耳タコだからです。なので、正論を繰り返しても一向に関係性はよくならないです。
むしろ、どう見ても社会不適合者の異分子だとしても「相手をなんとかしたいという下心」を捨てて、自分んのほうを変えていく訂正可能性に開かれた対話をすること。そんなオープンダイアローグ的なアプローチほうが、不思議と家族関係も風通しがよくなって、副次的に問題が解消します。
オープンダイアローグ体験会
最後に宣伝になりますが、オープンダイアローグってなに? という方向けに、体験会も開催しています。参加費無料ですので、よかったらご参加いただけますと幸いです。
(参照)人権としての訂正可能性を残すための法規制
ちなみに、人工知能民主主義(アルゴリズムによる統治)に訂正可能性がないという論点は、プライバシーやプラットフォーマー規制の文脈で、憲法や情報法の領域でも議論されています。