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「五感」を疎かにすると、「我慢する」がデフォルトになる

こんばんは、まりこです。
自分の生きづらさをなんとかしたくて、
内面の癒しにあれこれ取り組んだ体験記を書いています。

わたしの生きづらさの根本を作っていたのは、幼少期に親から教えられた価値感だったり、親の態度に傷ついて、自分は愛される価値がないと信じてしまったりしたせいだった、というのが、心の癒しを進めていくうちに少しずつ分かって来ました。

癒しが進むにつれ、自己肯定感は少しずつ上がってきましたが、とはいえ現実がなかなか変わらないことにモヤモヤしてもいました。

わたしはこんなに問題に向き合っているのに。
やるべき事はやっているはずなのに。
手間暇かけた癒しがガス抜きにしかならずに、また同じ事を繰り返してしまってる。
なんで変われないの??なんでループしちゃうの?

そんな状態を抜けることができたのは、敢えて意識を「五感」に集中させ始めてからのことです。

五感とは、「視覚・聴覚・嗅覚、味覚・体感覚」の5つのこと。
そんなことわざわざ言わなくても、普通にご飯食べたら味を感じるし、匂いだって感じるし、なにそれ?ってお思いになることでしょう。

でも、自分では全く自覚がなかったのですが、五感を意識し始める前のわたしは、自分の感覚をかなりの部分感じないようにしていたのです。

それは、「わたしは繊細すぎて、全てをありのままに感じてしまったら、生きづらさが増してしまう」と信じていたから。

確かに、敢えて鈍感になることで、苦手な場面をなんとか乗り切ったり、無理してでも頑張ることができたりしていたのも事実です。

だけどその一方で、感覚をシャットダウンさせていたことで、自分の「快・不快」がほとんど分からなくなっていて、その結果、わたしの物事のリミット判断が「まだ我慢できるかどうか」になってしまっていました。
(そして実際には、体感としては我慢の限界をだいぶ超えてからようやくリミットだと認識していた、という感じです。)

これは、おそらく母親から受け取った価値感なども影響しているでしょう。母親が、「ギリギリまで我慢する、我慢できないことも我慢する」という生き方をしていたので、「人生とは我慢の上になりたつものだ」という考え方が、わたしの中にありました。

だけど、自分の五感を鍛えて(正確には、感じている事を認識することを自分に許可して、意識を向けて)いくにつれ、
いかに自分が、不快である事を無視し、自分の体も心もないがしろにしているかに、ちょっとずつ気づいて来たのです。

疲れているのに休まない。
嫌なのに断らない。
やりたくないのにやる。
我慢してでもやらなきゃ、だって他にかわりはいないから。

やるべき事をやっている、という、前向きな気持ちでいましたが、実際は、相当な我慢を自分に強いていました。

そして、その我慢で蓄えたたっぷりのストレスを解消するために、ジャンクフードを食べたり、お金をかけて頻繁にマッサージに行ったり、やたらと買い物したりしていました。

この状況に気づき始めてやっと、「こんなに我慢をし続けることは、デメリットの方が大きいんじゃない?」ということに思いが向かい始めました。

なにもかもが無駄遣いじゃない?
体力、お金、時間、そしてわたしの人生そのものを、
こんなに我慢で消費していること、
無駄遣いでなくてなんなの??

五感の感覚が鈍っていると、自分の心地よいことが分からなくなります。好きなことも気づけなくなる。
世界の何もかもが、色褪せてつまらなくなる。

不快の感覚に鈍感になっていると、我慢している、ということに無自覚になり、少しずつ意識しないところで疲労や怒りが蓄積していきます。

不快であることを我慢した怒りは、ちゃんとケアしないと世界に投影されてまた不快な経験をするはめになります。

理不尽もいいところ。
その場を丸おさめるためによかれと思ってした我慢で、自分がまた不快な思いをしなければならなくなるなんて。

そんなことにならないように、我慢はしないでいられたら、それが一番です。
どうしても我慢が必要な時はちょっとだけにしておく。
あるいは、我慢をしているということに自覚的になっておく。

そうして、不快に気づいたら辞める、離れる。
快に気づいたら、取り入れる、繰り返す。

そうやって、日々の暮らしから少しずつ不快を取り除き、快を増やした結果、なんども繰り返すループから少しずつ抜け始めています。
地道なことなのですが、効果は大きかったと感じています。

では次回、わたしの五感の感覚を取り戻した具体的な方法を書きたいと思います。


読んでくださって、どうもありがとう。

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