【熱田神宮は海沿いだった!】ゆるく楽しむ日曜地質学:2023年1月15日号
最近、戦国時代の情報に触れる中で、やはり地形との関係が深いことに気づかされます。
そしてもう1つ気づいたことは、戦国時代の海岸線は必ずしも現在と一致しないと言うことです。
尾張国の古地図を眺めてビックリ
「国立公文書館デジタルアーカイブ」にて、江戸時代初期の古地図を入手できることを知りました。
江戸時代初期であれば、戦国時代とそう変わらないハズ!
私がナゼ当時の地図を見たくなったかと言いますと、「どうする家康」の中で、大高城が海の近くにあるような描写があったからです。
そう言えば、大高城だけでなく鳴海城も沖積平野に隣接した丘陵地にある。
沖積平野は約1万年前より新しい堆積物ですし、戦国時代以降に堆積し、海が陸化しても不思議ではないかも?
そう言えば鳴「海」だし、もしかしたら近くに海があったかも?
こうして見ると、両城の西は明らかに埋め立て地。
おそらく赤点線より海側は埋め立て地だと思われます。
しかしこれでも城から海まで少々距離はあります。
ということで、江戸時代初期の古地図を見てみましょう!
現在の地形図と並べますので、見比べてみてください。
知多半島のカタチが少々違うように見えますし、昔の方が海が内陸にあるような・・・。でも詳しく見ないと何とも言えません。
そこで、アップにして眺めてみたら・・・
見つけました!
「鳴海村」と「大高村」があります。河川との位置関係で見ても、両城ともだいたいこのあたりにあります。
どうやら、やや内陸側に位置していたようですね。
しかし熱田神宮が、何と海沿いにありました!
熱田神宮とは、信長が桶狭間の戦いの前に先勝祈願のために立ち寄った場所です。
現在の地形図と比べてみると、驚きですね。
今後は古地図も調べながら「日本の歴史と地形・地質」を書いていきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
今週の予告
今週も水曜日に1記事投稿の予定です。
今週はできれば「都道府県シリーズ」や「ジオ散歩」の記事も書き溜めていきたいと思っております。
では、今週もよろしくお願いいたします。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?