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最近、腹が立たなくなってきた
わかってみればカンタンなことなんだけど、なかなかわからないことってありますよね。
わかいころのぼくは、いろんなことにいちいち腹を立てていた。ぼくにかぎらずそういう人は多い。なぜそれがわかるかというとツイッターを見ていればわかる(笑)。自分の感情に振り回されている人であふれている。そういう人はモリカケに怒るし、五輪に怒るし、森喜朗氏に怒るし、バッハ会長に怒るし、年中怒っている。
ぼくが怒らなくなってきたのは年をとったからかというと、どうもそうではなさそうだ。ここ1年くらいの変化なのである。自分の感情をやや客観視できるようになってきたみたいなのだが、それはたぶんこのnoteを書きつづけているからである。もし30歳でnoteを書き始めたら31歳には怒らなくなっていただろう。
たとえば、昨日も書いたが、さいきんNTTの装置が壊れたのでわが家ではしばらくインターネットに接続できなかった。日曜日にサポートに電話すると「水曜日まで修理のスケジュールがつかない」と言われた。つまり3日間つながらないわけだ。ぼくは在宅ワーカーなので自動的に3日間の失業である。
これは電車の定期券を買っているのに3日間会社に行けないのと同じだ。ストライキなら仕方がないが他の人は乗車できるのにぼくだけが「定期券の故障」で3日間会社に行けない。文句の一つが出てもおかしくはない状況だが、そうはならなかった。しかし、怒りをためたわけでもがまんしたわけでもなく、あきらめていたのでもない。
わかいころは「これは正しくない」->「怒る」に直結していた。しかしいまは、「これは正しくない」とおもったあとで、「怒る自分」と「怒らない自分」の2つがイメージできてしまう。そしてどちらも選べる感じなのである。「怒ることもできるけど怒らないこともできるな」と思ったときには怒りはなくなっている。
くりかえすが、怒りをためているのでも、がまんしているのでも、あきらめているのでもない。ぼくはもともと溜めたりがまんしたりするのが苦手なのでさっさと表に出す方である。
こういうふうにどちらにもいけるスイッチが手に入ったのは割と最近で、おそらくnoteを毎日書いているうちにそうなってしまったようだ。毎日あれこれ想像したり、考えたり、書いたりしているうちに、自分を感情と同一視しなくなっていた。「怒る自分」や「怒らない自分」をあれこれ観察できるようになった。
わかってみればカンタンなことなのだが50年もわからずに損をしてしまった。わかっている人はもっと早いうちからわかっているのだろうなあ。あくまで結果論だがプリプリ怒らない方がものごとがうまく転がっていきやすい。今回のネット障害も水曜日に復旧する予定だったが、修理の人が気を回して火曜日の夕方に来てくれた。こういうふうにイイ具合に回っていく。
いま、Twitterをみるとあいかわらず怒っている人が多い。世界各地でも暴動が起こっている。もちろん、やむをえない怒りもあるだろう。立ち上がらなければならないこともある。ぼくだって貧困地区で、目の前で残虐なことが行われたら怒りに我を忘れるかもしれない。
そう。「我を忘れる」ということがなくなってきたのだ。秋葉原通り魔の犯人は「我を忘れていた」のだろう。ああいうことがなくなってきた。