永遠に見ることのないひとへ、あるいは未だ生き残っている人類のための『ブラック★★ロックシューター DAWN FALL 』紹介/クリティーク
🌐はじめに
こんにちは。筆者のユルグです。
今回も恒例、「奥行きのあるラジオ~2022年春アニメ終わったよ編~」で紹介された、視聴本数50本を超える中で1位とした作品『ブラック★★ロックシューター DAWN FALL 』の部分の投稿文の全文(加筆修正版)です。
🌐再演される神話と戦争
まず本作がどういう作品であるかを一言でいうと「人間なき世界を舞台とした再創造の神話」ということになり、そしてこの世界観こそが一番の魅力だ。
ギリシア神話関連で彩られた命名がなかなかに上手い。SFあるあるではあるがこれがしっかりと作品に厚みと深さと超然とした雰囲気を加味する。
世界が崩壊する原因となった労働力の省力化を目指した「エリシオン計画」が楽園を意味するのはもちろん、計画の中心となり人間に反旗を翻し、ラスボスにもなる人工知能アルテミスの化身ルナティックを地母神として生命の母とするならこれも実に皮肉が効いている。
さらに、ルナティックの手足となって地球を蹂躙する機械の兵器たちがティターンズやギガンテスであるのはもっと作品の核心に関わっていると言える。
というのも主人公たちエンプレス(ブラックロックシューター)、デッドマスター、ストレングスたちヘーミテオスユニットは本来アルテミスの守護者として造られる予定だったもので、へ―ミテオスとは「半神」のことであり、彼女たちの戦いとはまさにギリシア神話のティタノマキアやギガントマキア、つまり全宇宙を崩壊させ存亡をかけた戦争の再演を意味することになるからだ。
🌐ヒトの廃された世界と機械の少女
このように、ここまで人間の出る幕も居場所もない。そもそも話のはじまりにおいてこの世界と人類はエンプレスたちとともにすでに一度敗北しており死に体なのだ。
大気はアルケーというナノマシンに汚染されており人間は防毒マスクなしには生きていけない。海もアルケー汚染でアイアンオーシャン(鉄海)として液体金属化してしまっている。人類はかろうじて荒廃した大地に廃墟の足跡を残すのみだ。
徹底的に過酷でハードな世界観は一貫している。それがこの作品の美学であり他作品にはなかった魅力だ。
もちろん生き残った人間の進退窮まった状況下での生き様も少なからず描かれるし、お話自体も時を経た人類側の反転攻勢を示して終わる。しかし、やはり本編の輝きはそこにはない。それは再びの絶望、過去の敗戦のその続きをもってあらわれると言える。
そして「灯滅せんとして光を増す」さまを背負い体現しているのは本作でも少女たちだ(一番過酷を背負うのは死体の山を築くおじさんの兵隊たちかもしれないが)。
そもそもへ―ミテオスユニットになれるのは少女だけだ。神化という名の改造。機械化。
少女たちの造形は鮮やかにも残酷で無慈悲な神話的世界を際立たせる。
ほとんど肉付きがなく、おそろしくか細く薄い。およそ戦場に似つかわしくない。あっというまに四肢は折れて吹き飛ばされ、粉々になりそうだ。そして実際にそうなる。世界が砕け散る様を身をもって表現するのだ。
🌐怪異、魁偉、スマイリー
注目するキャラクター造形はこのあまりに儚く見える幸薄の少女たちだけではない。対となる怪人がいる。機械の半神と巨人の最終戦争という舞台が要請した特異なモンスター、スマイリーこそ本作のもっとも興味をそそられる存在となる。
終盤までエンプレスたちと争うことになるスマイリーが長を務めるカルト集団〈教育機関〉は、擬似的なへ―ミテオスユニットを製造するため人間の少女たちを攫う。
エンプレスが救出しようとした対象の少女たちの幾人かは結局彼女の目の前で爆発の火の海の中に飲まれてしまうことになる。
スマイリーの見た目は全裸に赤マントを羽織った筋骨隆々の白人男性のマネキンである。まさに意図的なトキシック・マスキュリニティ(有害な男らしさ)の権化!
股間は開閉式で通常は内部に格納されている。
少女を攫う目的は疑似へ―ミテオスユニット化の改造を施して自分との間にハイブリッドな〈神の仔〉を産ませることだ。
すなわち人類の死に絶えた世界の新たなアダムになっての「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ」。
さらにスマイリーは変形すると顔だけキューピー人形が怒ったかのような赤ん坊となるのだが、この鬼気迫る奇妙で異常なキャラクターが示唆するものにこそ、本作の「再創造」の神話の一端が垣間見られる。
彼の造形と行動原理が象徴する本作の妖しい魅力。ベッドの上で、戦場で、所構わず、あの華奢でおよそ出産からはもっともほど遠く、かけ離れた印象を与える造形の少女たちを標的にして、執拗に子をなそうとするその執念の異様さはどこまでも突出している。
これはともすれば本作に亀裂を入れかねない踏み外しともなっている。しかし、この常軌を逸した断裂、裂傷に、本作が秘める看取すべき奔放なイメージの徴表を見出したい(この点は最後に✤で少し発展的に触れる)。
🌐ハイブリット化する世界からの産声
古き世界を終わらせ新しき世界を再びはじめようとする衝動は、AIと金属生命体たちのほうにこそ勃勃と花開きつつある。
機械と生体の混合、新たな生命の誕生の狂い咲きへの激しい欲動の胎動が蠢き出す世界がそこにある。
結局スマイリーはエンプレスによって討たれるが、その後の最終決戦は5千発の月からの隕石兵器ムーンフレイクと圧倒的な物量差もあり、ハナから人類にとって絶望的だったのであり、相打ちの形となったエンプレスとルナティックの戦いも、ルナティックは月にいる本体のアバターでしかなく、一時的な先送りに過ぎないものとなる。この『月は無慈悲な夜の女王』の反響も憎いところだが、エンプレスの駆る支援用高機動車輛ブラックトライク(CV:久野美咲)のレヴィ=ストロース『悲しき熱帯』からの引用「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」は、『PSYCHO-PASS』の脚本家でもある吉上亮と深見真のコンビの手による本作の精神を間然するところなく表現するものだ。
このように、目を惹かれるのはSF的に語り直された世界創造神話としての叙事詩だ。
そこではどんなにハードで過酷な出来事も、傷つき血を流し死んでいく人間も、暴虐の限りを尽くす機械の巨人たちも、それらを超越する神々の思惑も、すべて価値中立的善悪無記としてあり、人類のみみっちいスケールを超えた抜けの良さがあっていっそ清々しい。
ここでは「反転の詩学」の美ともいうべき力学が貫いている。
汚染された大気のアルケーがエンプレスたちの武器になる。ストレングスのギガンティックアームという名称もその敵との混交を明示している。エリシオン計画も、アルテミスも、機械の巨人も、人類の生き残りの意思が反転したものだし、へ―ミテオスユニットはアルテミスの守護者から人類のための戦争の兵士に転用されたものだ。そしてスマイリーたちによって生産された疑似へ―ミテオスユニットは最終的に人類側の守護者となる。
ブラックトライクや図書館で出会ったライブラリアン・アンドロイドのアンディといったAIや機械たちの愛らしさと、果たされなかったおぞましいスマイリーの〈神の仔〉計画のどこに、その切断線を引けばよいのか。ヒトが役割を終えた人間抜きの大地で、このハイブリッド化が進行しながら新たに生まれ出ようとしているいく世界を前に、不分明さだけがいや増していく。
🌐Clear and Present Crisis!!/世界の終わりとはじまりにある少女たち
何回も何回も繰り返すことが示唆されるルナティック/アルテミスによる人類再創造計画やスマイリーの新たな生命体の誕生計画。いま繰り広げられている機械の巨人と可憐な半神たちとの神話的大戦。
これらの荘厳で神々しい崇高なページェントに対して対抗できるほどの強度のビジョンを、人類は今後持ち得るだろうか?そこに卑小な人類の居場所があるだろうか?誕生以来一度でもその兆しを示したことがあるのだろうか?それこそが戦いの敗北という結果の真の意味ではないか。
ここで顕になった勝負とはもはや生きるか死ぬか、生き残るか絶滅するかなのではない。どちらが新しい世界を勝ち取るにふさわしいのか、魅惑を持って誘うのか、存在するに足る気高さを備えた新たな生命体であるか、が問われているのだ。となれば人類は危うい。事態はその火急の事実を、叩きつけるかのように、ほとんど意にも介さないかのように、悲惨の叫喚と起死回生の希望に対峙する人類に、うなだれた無力感の前に、本作はそうやって迫ってきているのだ。
✤こうしてみると私たち人類が瀬戸際にあることといまやその表裏にある機械たちの楽園は同根から帰結するのだと言える。そこにいるのは少女たちだ。
本作の”世界が砕け散る様を身をもって表現する”少女たち、半神であるへ―ミテオスユニット、〈教育機関〉によって疑似へ―ミテオスユニットとして改造された/されそうになった少女たち、そしてスマイリーが欲する〈神の仔〉の母体となるはずだった少女たちは同一直線状を漸近していく同質の欲望の対象として世界にある。
なにかに仕組まれ導かれるように到来する機械と自然と人類が反転しつつ入り交じる世界。終りとはじまりの境界としての戦争の訪れ。
忘れてはならないのはこの戦争で傷つき死んでいったものたちのその中心にいるのはいつも少女たちだということだった(へ―ミテオスユニットで生き残ったのは物語のはじめから特に優秀だったエンプレスらたったの三体だけだった)。
本作から引き出すべき寓意はこういうことだ。戦争が世界に絶えず回帰して受肉するからいつも少女が犠牲になるのではない。少女の犠牲は単なる結果ではない。それこそが目的なのだ。一体なにが世界の終わりと世界を繰り返させるのか?少女を犠牲に捧げる儀式がだ。世界を維持するための神への供物としての物語。この倒錯。世界が終わり新しくはじまっても変わらないものがそこにある。
もしこの世界の終末が人類にとって悲劇であるとすればそれは、世界が終わることにではなく、この少女たちが担う欲望が源流を同じくする連続的なものとして次の世界でもあらわになることにある。ここではまったく新しいものがなにもはじまらないことの倦怠が顔をのぞかせている。
神と人類と機械の循環。そのはじまりはどこからなのか?果たして世界はまったく新しく再生しうるのか?あるいはただ同じものの繰り返しにすぎないのか?
壊れかけの世界から、この少女を貫く欲望の連鎖という根本的過誤かもしれないものは、ルナティックによって繰り返される世界再創造においても、スマイリーの夢見た〈神の仔〉の誕生によっても覆らず引き継がれるだろう。
神々の戦いの神話が再演されるように、この人類の終わりの戦いもまた次の終わりのはじまりにすぎないものでしかないのだろう。それはまたも少女たちの犠牲の戦いであるのだろう。その次もまた。これが本作が暗示するものだ。
再演される世界にどこまでもつきまとう贖われない犠牲の意味。新たなはじまりが決して終わることのない根源的罪過を、むしろ神々と人類の結託を意味するのだとしたら、その責任を担う応答は、本作からその外へと還流するもう一つの繰り返しとしての歴史の思考の運動そのものに賭けてみるしかないだろう。犠牲への問いへ――。
fin