会えない時間は愛を育てるか?
映画や本、ドラマといった作品をどう楽しむかは、個人の自由だ。これは間違いない。
でも最近思うことがある。
ワインやチーズや筋トレのように、時間を置くことでその味や効果が深まるものって確実に存在する。ある種の作品にも、これが当てはまるんじゃなかろうか、と。
UXという言葉を出すのが正しいのかわからないけれど、ドラマにはドラマの、映画には映画ならではの<体験>がある。
週1で放送されているドラマは、来週を待ち遠しく思う時間や、放送後のTwitterの盛り上がりや、放送中のリアルイベントも含めての<ドラマ体験>だろう。
たとえば「逃げ恥」の恋ダンスを友達と踊った思い出や、「カルテット」で考察班ツイートを読み漁った時間なんかも、1つの<ドラマ体験>なんじゃなかろうか。
ほかの例を出そう。私にとってハリポタは、11歳の誕生日に手紙が届かなくてひっそりと落ち込んだ思い出や、日本語版が出るのが待ちきれなくて英語版の挿絵をねたましく眺めていた時間も含めての<読書体験>だ。
例に挙げた<体験>に共通しているのは、時間軸があるということだ。
その作品に直接触れてない時間も、その作品にまつわる<体験>になりうる。そしてそこには、一定の時間が必要なのだ。
今日のタイトルに対して私の答えを出すなら、イエスだ。作品に直接触れてない時間も、作品への愛は深まる。
もしカルテットやハリポタをイッキ見(イッキ読み)してたら、巻さんやスネイプを疑ったり信じたりまた疑ったりヤキモキする必要はなかった。
でも、あの時間(カルテットなら3ヶ月、ハリポタなら8年?)があったからこそ、ラストシーンを心から味わえたんだと信じてる。必要な時間を経てこそ、<体験>が完成したのだと。
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でねでね、なにをごちゃごちゃ喚いててるのかと言うと。Amazonプライムでうっかり「おっさんずラブ」を見始めてしまったのですよ。
アラサーにもなって、キスひとつで心臓がバクバクしたり、「付き合ってください」の一言で飛び上がったり、バックハグに照れて画面を正視できないなんてことがあるなんて。思ってもみなかったよ!!!
しまった、別方向に話が走り出すとこだった。そう、気づいたら6話までイッキに見てしまったのです。
残すはあと1話。
放送時にTwitterが荒れていたから、なんとなく6話の最後にヤバいことが起こるらしいことは知っていた。だけどこんな衝撃のラストだとは(「衝撃のラスト」と紹介される映画にはたいてい衝撃を受けないのにね)。こんなほんわかした雰囲気のドラマに、こんな腹パンチを食らうなんて。
早く最終話が見たい。でも見れない。
さっさと見てしまったら、バカな私はこの悶々とした気持ちもすんなり忘れてしまうだろう。それはあまりにもったいない。
現実の自分が失恋したわけじゃないのに、完全に心は失恋モードだ。一刻も早く救われたい。安心したい。牧くんの笑顔が見たい〜〜〜〜!!!
でも、ここで1週間、時間を置いてみようと思います。リアタイで見てた人たちの苦しみを私も体験したい(ドM)。
あーーラストどうなるんだろう、と思いながら飲んだコーヒーの味とか、聞いた失恋ソングとか、深呼吸して感じた金木犀の香りも含めて、私の<おっさんずラブ体験>の血肉になると信じてるから。
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というわけでみなさん、今ならプライムで鑑賞できますよ!
ハチクロやオレンジデイズにときめいていたあの頃のピュアな気持ち、思い出したい人は一緒に見ましょう〜〜!!!(結局宣伝)