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カスクート(1)


金曜日の夜。


駅近くの居酒屋には、スーツを着た人々がその夜を楽しんでいた。


コロナ禍で外食を我慢していた人も多いのだろう。
大声を出す人はいないものの、皆お酒を美味しそうに飲んでいる姿が、なんだか懐かしい。
まだ5月なのに、今日は30度越えの夏日。
きっと冷えたビールが美味しいんだろうな・・・


いや、ここで誘惑に負けてはいけない。

私はフイッと目を逸らし、駅の改札口を足早に通り抜けた。


自宅の最寄駅からアパートまでの帰り道。
いつもは、やっと1日が終わったことに安堵しながら、今週はあと何日残っているのかと指折り数えながら歩く道。

だけど、今日のは私はいつもと違う。


家までの帰路から少し外れて、スーパーへと向かう。
時刻は17時50分。

よし、間に合う。


あらかじめスマートフォンにメモをしておいた買い物リストを見ながら、必要なものを次々にカゴへと詰めていく。

トマト、レタス、ズッキーニ、モッツァレラチーズ、生ハム

卵は家にあるから、これで役者が揃ってきた。



それにしても、今日は暑い。
スーパーの冷気が心地よく私の体を冷やしていく。


レジへ向かう途中、梅コーナーの前を通り「しまった」と思った。

梅仕事が始まるこの時期、梅の保存瓶や梅酒用のお酒が、かなりのスペースを占領している。
その隣に300mlの梅酒缶が申し訳なさそうに並んでいた。


このメーカーの梅酒、美味しいんだよな・・・
喉がごくりとなり、梅酒缶の前で私の足はピタリと止まった。



スーパーを出て、次の目的にへ向かう。
時刻は18時5分。
家とスーパーのちょうど真ん中にある19時閉店のパン屋さん。
今日はここに来るのを楽しみに、仕事を定時で切りあげてきた。


このお店の前を通ると、いつも良い香りが漂ってくる。

ここのパンは、美味しいのはもちろんのこと、商品が月替わりで入れ替わり、種類が豊富だから何度来ても飽きが来ない。

休日の楽しみとして、ここでパンを買って帰ることが、金曜日の日課になりつつある。



カランカラン♪


ドアを開けると鈴の音が鳴り、続いて店員さんの「いらっしゃいませ」の声と、優しい笑顔がこちらに向けられる。

この笑顔につられて自然と笑みがこぼれた。

「あの、フランスパンを予約していた牧原です。」
「牧原様ですね。ご用意しますので、少々お待ちください。」


こじんまりとしたお店の中でも、とびきり人気商品なのがフランスパン。


仕事帰りに寄ると、いつも『sold out』の札が貼られていた。

「こちらでお間違い無いですか?」
店員さんが奥から出てきて、パンを差し出してみせた。
主役のお出ましだ。
「はい。」
年甲斐もなくワクワクした気持ちが抑えられなくて、子供のような声で返事をしてしまった。
「夕方には売り切れてしまう商品もあるので、食べたいものがあればいつでも取り置きしてくださいね。」
「ありがとうございます。今日はどうしてもフランスパンが欲しかったので、とても助かりました。」
「あら、そうなんですね。何かお料理のご予定があるんですか?」
「実は、明日は朝食にカスクートを作ろうと思っているんです。」
私がそういうと、店員さんは私の持っている買い物袋をチラッと見て、「それは素敵ですね。このフランスパンはオリーブオイルをたっぷりと吸わせてあげるととても美味しいので、素敵な朝食になると思います。」と言った。

私は店員さんからフランスパンを受け取り、パン屋を後にした。


パン屋から家までの帰り道、私の足は軽く浮き足立っていた。
誰もいなければスキップでもしたい気分。
その気持ちを堪えながら歩いて帰る。


家の鍵をガチャっと開けた時、自分が鼻歌を歌っていたことに気がついた。
ご近所さんに聞かれていたら変な人だと思われるかもしれないが、気持ちが浮ついている今は仕方がない。


家に入ると、買ってきた食材を急いで冷蔵庫に詰めていく。

背中にじんわりとかいた汗をシャワーで洗い流し、濡れた髪の毛をタオルで軽く拭いた後、冷蔵庫へと向かう。

梅酒缶をとりだすと、プシュっと音を立てて缶の蓋を開け、ごくごくと梅酒を飲みほす。

「んーーーおいしっ!」

まだ熱を帯びている体の中を、冷たい梅酒が通っていくのがわかった。


ソファに腰掛けテレビをつけると、1週間分の疲れが溜まった重たい体が沈んでいく。
このまま寝てしまったら気持ちいいかな・・・
ぼーっとし始めた頭をぶんぶんとふり我にかえる。

「ダメダメ。明日は早く起きて準備しないといけないんだから。」
私はさっき飲んだ梅酒缶をささっと洗い流し、逆さまにしてカゴに置いた。


「明日のために今日は早く寝ないと。」
今日はベッド脇にあるアロマキャディフューザーに、1番好きな柑橘系のアロマを垂らして眠りにつく。


カスクート(2)へ続く



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