【短編小説】蕎麦湯
私はいつも間違いを犯す。
彼が引っ越しをする前、アパートの近くにお蕎麦屋さんがあった。
手料理が振る舞えるほどの料理道具も調味料もない彼の家に行くと、お昼ご飯も夜ご飯も外食をする事が多く、軽めのものが食べたい気分の時には決まってこの蕎麦屋に足を運んだ。
お店の暖簾をくぐると年配のおばあさん2人が慌ただしそうに、でもゆっくりと店内を行ったり来たりしている。
「空いてるお席どうぞ」
店に入ってきた人に、カウンターでもテーブル席でも好きな方を選ぶよう、毎回、そう声をかけるのがお決まりだ。
私たちはいつも、2人掛けか4人掛けのテーブル席を選んで座ることが多かった。
向かい合って腰掛け、メニュー表を開く。
今日はとても寒かった。
家にいた時は気が付かなかったが、外へ出てみると思いのほか風が冷たく鼻先を冷やす。
「カレーうどんも久しぶりに食べたいし、安定の月見うどんもいいなぁ。あ、でも天丼も美味しそう。」
朝ご飯を食べそびれ、目移りしてしまう。
「菓、頼みすぎだよ。」
「まだ迷ってるだけなのに!食いしん坊みたいに言わないでよ。」
「ふーん。ま、好きなのにしたら?」
「そういう碧人は決めたの?」
「うん。やっぱり蕎麦屋に来たらざるそばでしょ。それと、天丼も。」
「結局いつもと同じか〜。味気ないね。」
「蕎麦屋に来て蕎麦食べて何が悪いんだよ。もう頼んでいい?」
「はいはい。じゃあ月見そばの温かいのにしよっと。」
「結局自分もいつもと同じじゃん。」
「いいでしょ、別に。美味しいんだもん。」
「はいはい。すみませーん。」
碧人が手をあげると、おばあさんが小走りで駆け寄ってきった。
「月見そばの温かいのと、天丼セットのざるでお願いします。」
注文を終えた碧人がメニュー表を畳もうとしたのを止め、しばらくメニュー表と睨めっこをした。
「お待たせしました。月見そばの温かいのと、天丼セットのざるね。」
両手にバランスよく持っていたお盆を丁寧に机に下ろすと、また駆け足で厨房に戻っていく。
割り箸を手に取り、今日も均等に割れなかった箸を見て眉間に皺を寄せていると、おばあさんがまた小走りでこちらに向かってきた。
「蕎麦湯、置いときますね。足りなかったら声かけてくださいね。」
蕎麦湯をテーブルの空いているスペースに置きつつ、伝票を伏せて置いていく。
私はまた間違いを犯してたことに気がついた。
「うわぁ。またやっちゃった……」
「蕎麦湯、飲みたいんでしょ?」
「うん……でも今日寒いからかけ蕎麦のことしか頭になかった。」
蕎麦屋でしか飲むことのできないこの蕎麦湯が、お蕎麦屋さんに来る1番の目的と言ってもいいくらいに蕎麦湯が好きだ。
それなのに、寒くなってくるとついつい温かいかけ蕎麦を注文してしまう。
1年前にも同じやりとりをした。
きっと、1年後も同じやり取りをするんだろうな。
「後で俺の蕎麦湯飲みな?」
そう言いながら碧人は蕎麦を啜る。
碧人の蕎麦つゆの横には、まだ手付かずの薬味達が小皿の上にちょこんと座ったままだった。
「薬味入れないの?」
「うん。」
「いつも入れてるのに?」
「うん。」
蕎麦を啜る間に相槌だけが返ってくる。
薬味を残すのは、いつも私だった。
辛味が苦手であまり得意ではない。
1年前にも同じやりとりをした。
私は、蕎麦湯を飲めなかった。
きっと、1年後も同じやりとりをするだろう。
その時は、私のために蕎麦湯を分けてくれる人がいるんだろうな。
一緒にいると、お互いに存在することが当たり前のようになっていく。
月日だけがすぎているように感じていたけれど、私たちはお互いのことを思いながら過ごしているのかもしれない。
こんな些細なことでも大きな幸せを感じとって、私はかけそばのつゆで体を温めた。