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そうだ、明日は本を読もう。

人生を折線グラフで表すと、今まさに急下降しているところだ。

千砂はソファーで項垂れていた。

連日、猛暑日を記録しており、日本の各地で記録的な暑さが続いていた。
仕事が終わり家に帰ればそこはサウナのような暑さで、換気をする余裕もなくエアコンのリモコンを手に取りスイッチを入れる。休む間もなく扇風機を首振りにしてダブル体制に稼働させた。
それが帰宅後のルーティーンだった。

「やっちまったな」
すでに玄関がひんやりとしている。
スーパーマーケットで感じる様なひんやりとした空気ではなく、昨夜使った氷枕が、翌朝かろうじて冷たいくらいのひんやり具合。
玄関からリビングに続く1枚の扉は開け放たれており、そこを進むとゴーっという音を響かせながらエアコンの羽がせっせと動いているのが目に入る。
誰もいないリビングを1日中冷やし続けていたようだ。
電気代が高騰し続ける中、記録的な猛暑日のおかげで今月の電気代を想像するだけでも恐ろしい。
でもエアコンがなければ熱中症で倒れ、病院に入院する方がお金がかかるだろう。
そう自分に言い聞かせて、家にいるときは1番中エアコンを稼働させている。

「勿体無いことしたな」
しばらくエアコンを眺めてみたが、出勤前にタイムリープするわけではない。
肩からかけたままの荷物を下ろし、冷蔵庫からお茶を取り出す。
タンブラーに氷を5つほど入れてからお茶を注ぐ。
『冷えた飲み物は控える』ダイエット成功者のアカウントの持ち主の言葉が頭をよぎるが、こうも暑くてはそれどころではない。
少しでも冷えたもので体の芯から冷やしたいと、本能がそう言っている。
……様な気がする。

タンブラーを片手にソファーに座ると、エアコンから噴き出る冷たい風が顔を撫でる。
いつもなら扇風機の前を陣取っている頃だが、今日はその必要がなかった。
まだ片付いていない残りの仕事を終わらせようと、鞄に手を伸ばす。

「……タイムリープしなくてよかった」

今朝に戻れたらエアコンを消してから家を出るのに。
そう思った数分前の自分の、しょうもない願いが叶わなくてよかった。

今日は仕事でうまく行かないことがあって、帰りの電車も放心状態だった。
ある人の心もとない言葉のせいで、周りの人の心がザワザワとした。
千砂もその内の1人だった。
どうしてあんな言葉を平気で言えるのだろう。
思い出したくなくても脳裏に再生される言葉が離れずにいた。
誰が悪いとか、誰の失態だとか、そういうはっきりとしたことがあればもっとスッキリするのに。
誰も悪くない、誰の失態でもない。ただ、心がざわつく。

「これはしばらくダメだな」
仕事をこなしつつも、千砂の心ここに在らず。
ぼーっとしながらひたすら指を動かす。

やらなければいけないことが終わりスマホに手を伸ばした。
少しネットの世界に逃避しよう。
そう思いスマホのロック画面を開くと、wi-fiのマークが消えている。
設定から再接続するもうまく行かない。
テレビのネットもつながらず、いつも利用している音楽サービスも使えないようだ。
wi-fiの本体を見ると、インターネットのところだけランプが消えている。
再接続の方法を試すが、何度パスワードを入れてみてもランプが灯ることはなかった。

「こりゃだめだ」
どうやらネットの契約者である夫のスマホからでなければ接続ができないようだ。
wi-fiがないからといって、ネットが繋がらないわけではない。
1日くらいwi-fiを使わなくたって、通信料が膨大にかかる訳ではない。

「ま、いっか。どうしようもないし」
動画配信サービスを開くと、最近気になっているゲーム実況者がライブ配信をしているところだった。
wi-fiのことは一旦置いて置いて、ひとまずご飯にしよう。
今日の晩御飯は豚バラで簡単肉じゃがとキャベツのサラダ。
晩御飯の品数には気を配ってきたが、今日はどうもその気力がない。

「肉じゃがの量で誤魔化す作戦で行こう」
千紗は誰もいない部屋で言い訳をするように呟いた。

ご飯を食べ終わり、何とか体が動くうちに洗い物を終える。
いつもならここでコーヒーを淹れて、ネットサーフィンをしたり動画を見ながらゆっくりとするのが日課だった。
だが、なんといっても今日はネットの通信環境が悪い。

「今日はダメだぁ」
ソファに項垂れリビングの棚を何気なく見つめていた。
そこにはしばらく使われていないタブレットが充電コードが刺さったまま置かれている。

「そういえば最近使ってなかったな」
久しぶりに以前ハマっていたアプリでも使ってみようとタブレットを開くと“更新のお知らせ”と表示される。
使っていなかったうちにバージョンアップされた様だ。
更新をしようにも今はwi-fiに接続が出来ない。
アプリの更新もかなりの時間を要する。

「なんてこった」
上手く行かない日はとことん上手くいかない。
千砂の相場は何故かそう決まっている。

キッチンまで行くがコーヒーを淹れる気力を完全に失ってしまい、お茶が入ったピッチャーを手に取りソファーまで戻る。
HPを回復するためのコーヒーも、ある程度HPが残っていなければ淹れる事が出来ない。
人生、そんな矛盾だらけだ。
タンブラーには1/3ほどお茶が残っているが、お構いなしにお茶を継ぎ足す。
まだ冷たさを保っている優秀な容器のおかげで喉が潤う。

「今日はこれでいっか」
今日は頑張ることを諦めよう。
何かすることを、やめよう。
いつもすることを、やめよう。

スマートフォンで音楽を再生した。
あまり聞いたことがないアーティストの音楽をBGMに、最近買った又吉直樹のエッセイでも読もうか。
本に手を伸ばしかけた。

「いやいや、今日は何もしないことにするんだった」
何かすることをやめた千砂はタオルケットを引き寄せミノムシになり天井を眺めた。

「この家の天井って、こんな色だったんだ」
知らない音楽と、見慣れない天井。
どこか別の世界にいるようなそんな気分。

「いっそ別の世界に行けたらいいのにな」

叶うはずのない、くだらないことを考えて今日も1日が終わっていく。

「そうだ、明日は本を読もう」

千砂はゆっくりと目を閉じた。

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