少数者として胸を張って生きていきたい
3月26日(火)
結葵(ゆうき)と申します。
「こうあるべきだ」という社会規範を全力で拒絶する
「〇〇的マイノリティ」というものが定義できるとしたら、僕はそこには類別されないのかもしれない。でも、マイノリティというものが定義できない以上、つまりマジョリティとの境界をはっきり策定することができない以上、僕はここ最近ずっと、自分がもしかしたら何らかの点でマイノリティなのかもしれないと繰り返し問答している。
自信を持ってマイノリティだと自認することはしない。自分が多数に与するのか、そうでないのかは相対的にしか規定されない。しかし、多数者の論理や常識に上手く適応することができない、「何故か分からないけれども、貴方たちと同じように考え行動することができない」という意味では、誰もがマイノリティであり得る(と思う)。
個人的に、多数者というのは、自分のことをマジョリティだと思っていないが、同時にマイノリティだとも思っていない、あるいは、社会に多数存在するマイノリティを、自他の境界のはっきり外側に存在していると直感している、ある種の無自覚的共犯者とも言える人間のあり方であると考える。
多数者、そしてマイノリティというのが「人間のあり方」であるがゆえに、それらは固定的というよりもむしろ流動的であり得る。つまり、ある局面やある関係のなかで、誰もが多数派にもマイノリティにもなり得る。
しかし、如何せん身体の外部に露出しているもの、主体の外見としてのマイノリティが極めて分かりやすく判断されるため、主体のなかの主体、アイデンティティのあり方は目に見えない。その「分かりにくさ」ゆえの困難に衝突することは、誰にでもあり得ることではないという意味で流動的ではなさそうである。
たとえば、「不正(義)を正す」「より正しい社会をつくる」という言い方をすれば、それは誰もが願うことであるし、誰もが実行すべきだと口を揃えて言うだろう。メディアが「ネットの反応」という(いささかの説得力もない)国民(を代表しているかのように自信たっぷりな人たち)の声をかき集めれば、ほぼ間違いなく「不正は正すべし」は多数の意見として成立するはずだ。
だが、このような同じ動機や正義を共有しても、テロリストや犯罪者、つまりある種の過激な暴力によってこれを実現しようとする人がいれば、彼らは途端にマイノリティになる。そこには別の多数、すなわち「暴力はいけない」という社会規範(あるいは別の正義)に従って物事を考える者たちが聳え立っているからである。
もちろん、このような暴力に訴えることを礼賛するわけではない。暴力によって無理やり抑圧者、非抑圧者の対立構造を転倒させるのは、叩かれる側が叩く側に回っただけで何の解決にもなっていない。ヒーロー映画やアニメはそのような幻想を夢物語としてでっち上げ観客を魅了するまさにフィクションである。
また、いつも変わらずそこで待ち受けているのは、マイノリティの論理、感情、倒錯は、マジョリティには理解され得ないということ。悪役、つまり少数側がどれだけ(過激でさえあれど)合理的、現実的な革命を企てても、正義の味方というのは、自分の正しさを疑うことなく貫き通す。多数者が多数者であるのは、正常ー異常を二項対立的に考えるからであり、精神分析的にいう「正常という異常(=逸脱・倒錯)」を考慮していないからだ。
これを根本的な形で言い直せば、「結局、人は分かり合えない」という身も蓋もない結論に行き着いてしまいそうなのだが、ここではその極まで行かないでおこう。
と言いつつも、「一生懸命、多数(社会)に適合するように頑張る」という結論だけは避けたい。少数者は、胸を張って堂々と少数者として生きてゆく。多数の中に溶け込むことに奮闘し、自分を多数者の鋳型に合うように形成するのは本末転倒だと思う。それこそが、多数者が多数者として当然のごとく抱いている無自覚的共犯の観念、そうするべきだという正義、それが普通だという社会規範にほかならないからである。
特に「不登校」状態にある子どもたち。まさにこの「不登校」という言い方が、マジョリティ的な異常である。子どもは学校に登校するのが当然の義務であるとでも言いたげな表情が見え隠れしている。学校というのは、やはり大枠で捉えれば、きちんと社会に適応できる者(=定型)を育てることが前提となっている節があるし、それは子どもたちの親、保護者の願いでもある。これはいわゆる「無職」のひとや、世間から「フリーライダー」と揶揄される者たちにとっても同様である。「勤労の義務」なんてのはまさに「正常という異常(=逸脱・倒錯)」だと思わないか。
(俗な言い方しかできないが)われわれには自分の心を大切にして生きる権利がある。もちろん、少数者として生きることには様々な困難も同時に伴う。決して楽な道のりではない。中井もまたそう言っている。しかし、自分の心を大切にできなくて、何を大切にできるというのだ。
ラクス・クラインが「人は必要から生まれてくるのではありません。愛から生まれてくるのです」と言うのであれば、必死で自分を愛せるところを探すことに、理屈をこえた感覚(愛、心地よさ、安心)を頼りに生きることに、なぜ人はこうも冷たい視線を送るのだろうか。
冒頭で「「〇〇的マイノリティ」というものが定義できるとしたら、僕はそこには類別されないのかもしれない」と述べたのも、後ろ指をさされ「お前は楽して生きたいだけだろ」と、ひょっとしたら本当にそうなのかもしれない、自分でもよく分かっていないからだ。もし本当にそうなのであれば、僕は甘んじて受け入れる覚悟はできている。できれば「楽に生きていきたい」。人の一生がラクではないことくらい青二才にも分かる。でもだからといって、自分も同じくそれを経験すべきだという社会規範は到底受け入れられるものではないし、その直感や感覚、心に正直に従う自由を、僕は無下にしたくはない。
多数者が当たり前だと思う生き方、動き方にいったん疑いを持ち得ずにはいられなくなった生において、僕は ”社会復帰” を目指すのではない。善かれ悪しかれ、勉強によって「変身」してしまった。ノリからシラケずにはいられなくなった。僕は間違っているかもしれないが、でもこうやって生きていきたいと「いまは」思って行動に移す。そう心が叫びたがっているから仕方がない。
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