綺麗事を言って満足するやつが一番キライ
4月13日(土)
結葵(ゆうき)と申します。
これは自分のことかもしれない。
周りの人間が普段使っている日本語に注意深く耳を傾けてみれば割とすぐに気づくことだが、我々はどれだけ気軽に、何の躊躇いもなく「頑張る」という類の音を口から漏らしているのだろうか。
入学式があった。
生まれてこの方入学式というものを、小・中・高・予備校・大学と(おそらく)5回ほど当事者として経験してきて、今回は生まれて初めての立場で入学式に参加することになった。
相も変わらず冗長的で、毎度のごとく単調で、無味乾燥で無聊を託つ式次第。
来賓紹介では、ひとりを除いて全員がオヤジで、誰一人として例外なく「ご入学おめでとうございます。頑張ってください。」という乏しい言葉を挨拶する。ちょっとスカして気の利いた別の言葉を言おうとする者もいたが、「実りある時間をお過ごしください。」と敢え無く惨敗。当の本人は自信満々な表情をして、キマったとでも言いたげなドヤ顔を披露していたけれども、しょせんは定型文の域を逸脱することはできずスベッていた。
お偉い方々(とはお世辞にも思えないが)の、どこかで聞いたことあるような言葉だけで綴られた取るに足らない挨拶の数々も聞くに失せる。
いつの時代も、いい歳こいて悪あがきをしているオヤジどもの言うことはきっと同じなんだ。ならば、自分も将来そうなっているんだろう。悲しいけれど、今から踏ん切りがついていればある程度の予防もできる。Aメロが始まる前に「僕の話の8割は冗談だと思って聞いてくれ」というイントロを差し込めばいい。
この貧相のカケラもない日本語という言語を、日々何の違和感もなく使い続けている人には到底分からない理屈と感情だと思うが、これほどまでに「語学」というものを、ある種の「バーチャル的空間世界の移動」だと捉えることは自分自身にも未だかつてなかった。
僕の周りにも数人、毎朝起きて一番に数学や物理の入試問題を解くという超常識人がいるが、感覚的にはそれに似ているかもしれない。いや、きっと同じだろう。
人の上に立つ人間が「学校全体でチーム一丸となって頑張っていきましょう」なんて会議で言うとぶっ飛ばしたくなる。
「学校は社会から隔絶された空間だ」「地域や社会とまったく接続がなくなった」などというバカバカしいことを言うやつが増えて、しかもそれに何の疑問も持たず一挙手一投足同じ動きをして仲間どうしで盛り上がっていい気になるやつが増えた。そんなやつらが「善かれと思って」平気な顔で教員の負担をどんどん重くするのだ。
人の「善意」を否定する気は毛頭ない。善意は優しさと温もりを含んでいる。ただ、「善かれと思って」はそれが暴走した形で表出する。「善意」には儚さや非力さというものがある。自分なんかではほんの少ししか助けにならないけれど、それでも誰かを助けたいという思いは必死で、目の前で困っている人がいれば自然と手を差し伸べている「惻隠の情」だ。
「善かれと思って」というのは、その言葉自体がもたらす鬱陶しさがそのまま態度や行動に出る。相手が必要としているのだ、こうしたほうがいい決まっているという恩着せがましいお節介が、善意を歪曲した形で生み出す。
同じ職場で働いていながらも、まだ一言も話したことのないひとというのがある。すれ違うときも微妙な距離感で挨拶するが、ふとしたことをきっかけに少しお話しする機会が与えられる。お昼ごはんを食べているとき、帰りが一緒になったとき、会議でとなりに座ったとき。
昨今は、人間関係の異常なほどの難しさと複雑さに苦労している人が多い印象を受けるけれど、その半面、すごくチョロいところもある。
職場というのは、ある意味で「隔絶された」空間で、否が応でも毎日顔をあわせる人たちとうまくやっていかないといけない。事実としてそうであるわけでは決してないけれども、我々の多くはそう感じているし、そうするべきだと思っている。
だからこそ、些細なことでも共感できたり、シンパシーを感じてしまうと、途端に似たもの同士として相手のことを知った気になってしまう。それはそれで、会議で僕みたいな1年目のペーペーが発言するときに、首を縦に振りながら聞いてくれるようになるのだからすごく嬉しい。くだらない社会規範が、思わぬ方向で自身の利益になってくれることもある。だからといって「やっぱり〇〇って大事だよな」みたいな話はしょうもないため、断固としてしたくないが。
とりあえず今回はここまで。記事を出せていなかったからとにかくまずは出す。
違う話題は、違う記事で書く。
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