【短編小説】氷 -2023年の終わりに- 2
12月30日午前。体調は前日とあまり変わりない。一方で天気は僕を置き去りにするように清々しい青空が広がっていた。カーテンの隙間から光の束が差し込んでいる。僕はスポーツドリンクと食糧を買いにコンビニへ行った。その帰りのたった数十メートルで、僕はこのまま消えてしまうんじゃないかという不安に襲われた。雲一つない澄んだ空が、まるでこの年を清算しようとしているみたいだった。年末、すべての役目を一時的に肩から下ろし、帰路へつく人々の安堵とささやかな幸福を映し、祝福しているような青空。なんとなく、僕はそこに包まれていない感覚がする。消えてしまう、ではなくて消えたほうがいい、そんな突拍子もない不安。まったく、どうしてこんなに陰鬱な気分なんだろう。早く空の見えないところに戻らないと。
僕は冷凍庫の氷を口に入れた。なんとなく薬を飲むような気分で、逆立つ感情が落ち着く。製氷皿に水を入れ、また新しい氷を作る。今日やることはそれくらいだ。本来は故郷で数年来の友人と会う予定があったのだが、それはもうどうにもならない。今日を逃したらもしかすると二度と会うことはないかもしれない人たち。社会に出て一人になってしまうと、彼らとの最後のチャンスが無数に流れて過ぎ去っていく。気づいたら亡くなっている人だっている。僕が知らないうちに、誰かが過去で止まってしまった存在になっているなんて、想像するだけで怖くなる。そうして、残された僕らはどうして生きているのか、なんて答えのないことを考えてしまう。
横になって天井を眺める。脳がゆらゆらと揺れている感じがして気持ちが悪い。気を紛らわせる何かが欲しい。スマホをいじって枕の横に放り投げる。それを繰り返した。この世界に存在することを確かめるように、僕は思考を止めたくない。この際仕事に関することでもいい。年が明けて出勤して、片づけなきゃいけないものは何だっただろう。いつもだったら瞬時にざわつきが頭を満たすのに、今だけはどうしても思考が進まない。いつも思い通りにいかなくて恨めしい。僕は何でもいいから頭の中心から意識を逸らしたかった。そこには彼女の影が居座っていたからだ。
陽のあたる場所。
「私が好きなとこはさ」
午前の講義が終わり、駅に向かって歩いているときに彼サトミは唐突に言った。梅雨がようやく明け、本格的な夏の始まりを感じさせるような晴れた日だった。
「そういうところ」
「えー、なに。どういうこと?」
僕は彼女の言葉について考える。でもやっぱり思い浮かばない。彼女はいつだって曖昧だったから。僕は今隣を歩いていただけで、特段取り上げられそうなことは何もしていない。僕は黙ってしまう。顔が熱くなって、たぶん表情に赤が混じっている。
「うん、ほら。また難しく考えてるでしょ」
「だって、なんのことか全然わかんないし。なんかごめん」
「もう。謝らないで。ホントに別にいいから。これからもそのままでいて」
僕はいつも不安だった。とりわけ彼女のことを考えるとその感覚は僕を強く苦しめた。僕は彼女のことが好きで、そしてたぶん、彼女も僕のことが好きだ。だけどそれがいつか終わる日のことを常に考えてしまう。どこまでも暗い深海に一人でいる気分になる。彼女との日々は幸福に満ちていた。でもそれと一緒にどこまでも自己嫌悪が影のようについてきた。
「あ。ねえ、あそこのカフェ行ってみたかったんだよね。ほら、行こ」
彼女は僕の手を引いた。僕はまだサトミの言葉に取り残されていた。
彼女との思い出は澄んだ青空の日ばかり。だけどもうそれが更新されることはない。サトミは過去の存在になってしまった。スマートフォンの写真を見返す。一瞬で何年もさかのぼっていく。そこには僕と笑う彼女が写っている。僕はどれもぎこちない顔。風景だけがどれも違って、二人は変わらなかった。
くだらない。もう終わったことだ。そんな風に思っても現在に向かって次々と過去があふれてくる。
灰色のまま時間は過ぎていく。無限に引き延ばされたような虚無の中で、いつの間にか陽は傾き始めていた。
流れる記憶がようやく淀みだした頃、僕は自身のことについて一つ思い出した。僕の唯一の趣味のことだ。それは小説を書くことだった。別にどこかで公開したり、賞を狙ったりしているわけではない。無心になって小説を書くと、日常の不安や憂鬱を心の内から解放できるような気がした。感情の一つ一つを砕いて、それを文字にそして物語に変換することで、僕は僕を確認し、この世界と向き合えるような感じがした。だから僕は小さいころからずっと小説を書いていた。不安定で傷つきやすい僕の処世術だったのかもしれない。どうしてそんなことを僕は忘れていたのか。
書いた小説はサトミにだけ見せていた。それまでは誰にも見せたことがなかった。小説を見せるという行為は、心をそのまま外気に触れさせるような痛みを伴う。それでも僕は彼女に自分がどういう人間なのかを知ってほしかった。面と向かってだといつも彼女に置いてきぼりにされてしまうから、僕は文章によって彼女のもとにたどり着こうとした。サトミはそれをいつも丁寧に読んでくれる。そして2,3言の短い感想をくれる。彼女の言葉はやっぱり曖昧だが、小説に対するものだけはどうしてか僕に熱を帯びた安堵を抱かせた。僕はこうやって彼女に僕という存在を伝えていた。
いつからか小説を書く頻度は減っていき、そういえばもう一年以上何も書いていない。僕が僕でいられる行為のはずだったのに、今はそれをする気力がない。僕は一体、どんな言葉を使ってどんな物語を記していたのだろう?そうして僕は何を解き放っていたのだろう?子供の時から繰り返してきたはずなのに、うまく思い出すことができなかった。
僕はベッドからはい出し、机の引き出しを開けた。使い切って死んだ電池、文房具や手帳なんかが乱雑に詰め込まれている。何冊かのノートがそれらに埋もれるように眠っていた。僕はその一冊を手に取り適当にめくってみた。どのページにも言葉や図、落書きのような絵がびっしりと記されている。自身の内側からほとばしる感情になる前の衝動のようなものたち。それらは亡骸のようだった。今の僕には何も湧き上がってこない。年の終わりにこんな悲惨な状況に追いやられても、僕はそれを言葉に変換することができない。
引き出しの中のノートたちの隅に転がっていたUSB。そこには僕の文章たちが詰まっている。それをつまんだ手が震えていた。自分のものなのに盗み見るような罪悪感があった。僕はノートパソコンの電源を入れてUSBを挿した。たくさんのフォルダが画面に現れる。それぞれに小説のタイトルやメモ書きのような名前が付けられていた。心臓の鼓動がずいぶんとやかましく鳴っている。それに邪魔されてじっくりと作品たちを読む余裕がなかった。僕は過去の自分を目の当たりにして動揺している。僕はあの頃いた場所から転落してしまったのだろうか?気づかないうちに自分が進むべき道から遠く外れ、深い底から空を見上げているだけ。
深呼吸をした。何年か前に書いた小説を開く。僕のようであって、しかし今の僕ではない主人公がそこにいた。彼はやはり憂鬱で、思考の中を泳ぎながらバスに揺られている。数ページの後、用事の帰りに彼はとある女性に出会う。そしてこれから物語が始まっていく。
僕はそこで読むのをやめた。もう充分だった。
読んでいた小説を閉じ、僕は何も書かれていない新規の画面を立ち上げた。戻りたかった。どこにいるのかもわからないこの状況から帰りたかった。すべて忘れてしまいたかった。だから再び僕は文章を書こうとした。何でもいい。プロットなんていらない。とにかく自分の今の気持ちを文字にしてすくい上げればいい。僕は伸びをして小さな光の画面の中に向かった。
しかし、僕は何一つ言葉を紡ぐことができなかった。数分、数十分と時間は無為に過ぎていく。僕の頭の中は空っぽだった。ああ、心の深いところに続く井戸はもう枯れてしまったのだ。
12月30日はほかに語るべきこともなく、がらんどうのまま終わった。病熱に体を縛られ、僕は曖昧な不安と焦りを抱えたまま眠りにつくことすらできなかった。