氷 -2023年の終わりに- 1
今年はどんな一年だっただろうか。そして、来年はどんな一年にしたいだろうか。
2023年の1月1日からもう少しで365日が過ぎようとしている。あっという間だと感じるだろうか。僕について言えば、一瞬で過ぎ去ったという実感はない。不眠症に悩まされた自分にとってはむしろ逆かもしれない。焦燥に背中を撫でられるような暗闇に僕は毎夜さらされてきた。それはあまりにも長かった。大学を卒業し、働き始めて5年目にして仕事量やら対人関係やらでストレスは許容範囲の線を踏み潰した。どうやらいろいろと限界を迎えたらしい。その成果の一つとして僕は不眠症に悩まされることとなった。だから夜は延々と続いたし、太陽が空にある時間の大半を眠気に嚙みつかれながら過ごした。今年、印象残っている出来事は?楽しかったことは?逆につらかったことは?僕は言葉に詰まる。寝て起きて、スーツを着て、電車に乗ってを繰り返し、そしてまた一つ歳を取って僕は27歳になった。それだけだった。
ただ少なくとも今年の最後を飾る12月についてだけは、正確な判定を下せるような気がしている。良いか悪いかという単純な分類で許されるのであれば、間違いなく12月は最悪と呼んでいい月だった。繁忙期が夏風邪のように長引き、月初めは目の回る日々だった。不眠は病院で処方された薬で無理やり追いやる。でも効きすぎるからあまり使いたくなかった。そんな時期がようやく落ち着いた矢先、クリスマスの直前、僕は6年付き合った彼女に別れを告げられた。恋人のサトミとは東京の大学で3年の時に出会った。ゼミが一緒だっただけで特に会話をすることもなかったのだが、4年になってゼミの飲み会で意気投合し、それから付き合うことになった。大学を出て二人は別々の道で働いた。それでも定期的に連絡を取り、そして二人で会い、僕らは関係を続けてきた。しかし彼女は突然僕に別れを告げた。彼女はいつから僕との終わりについて考えていたのだろう。僕はずっと彼女に好意を抱いていたし、それは今でも変わらなかった。僕はまだこの気持ちの捨て方を見つけられていない。そして挙句の果てに12月28日に高熱を出し、次の日に控えていた実家行きの新幹線を手放した。年末年始の帰省を諦め、僕は東京で一人ぼっちになった。最悪の締めくくりだ。
28日は朝から異常が僕を包んでいた。全身が粘土のようにだるく、ベッドから起き上がると脳が頭蓋骨を突き破るような痛みに襲われた。前日の夜は珍しくスムーズに眠りにつくことができたのに。あと一日だけ乗り切れば、一時的に傷だらけの歯車的労働から抜け出せる。それがきっと麻酔の効果をもたらしたのだろう。就寝前にいつもやってきてはぐるぐると頭を回るいたずらな不安も訪れなかった。だけどそんな希望は僕の最後の力まで抜き取ってしまったらしい。朝目が覚めた時、僕はまるで電池切れになってしまっていた。偽りの申し訳なさを声色ににじませながら「休む」と職場に電話をかけ、結果的に他人よりフライングする形で仕事を納めることとなった。
そして今日は29日。年明け1月3日までの休みに入り、僕は昼前にこの無機質な部屋から出て、新幹線とバスで4時間ほどの実家に帰るはずだった。しかしそれを拒むかのように体温は上昇したまま動かなかった。目を覚ましてまずは頭痛。そして38.5度。脇に挟んだ体温計がたった数秒でそんな数字を吐き出すのがどうしてか腹立たしかった。そんな苛立ちまでもが頭痛を加速させているような気がしてくる。皮膚の表面は燃えているようなのに、内側は気味の悪い冷気で満ちていた。視界に映る自室の机やテレビが目の奥で大きくなったり小さくなったりしている。輪郭がすべてあやふやだ。のどが渇いた。とりあえずスマホを手に取る。SNSで誰かが投稿した言葉の羅列や写真に目を滑らせる。濁流のように押し寄せる文字たちが吐き気を後押しした。情報として脳が処理できない。重心のままならない足取りで台所へ行き、コップの水を飲む。冷たさは喉のあたりで蒸発してしまった。それから再びベッドで横になる。
行きの新幹線の切符はすでに発券していて手元にある。キャンセルして返金するには窓口に直接行く必要があるらしかった。しかし自力で行くにはなかなか厳しそうだ。不幸中の不幸で、外は今にも雨が降り出しそうだ。スマホの天気アプリは本日が雨でとにかく寒いということを伝えていた。誰かに頼もうにも、頭に浮かぶたった一人の人とはつい先日から連絡を取ることが許されない関係になってしまった。だから諦めた。新幹線代を悔やむ余裕すらこの体にはなかった。とりあえず両親には体調不良で帰れないことを連絡しておいた。数分待っても既読がつかなかったから、僕はすることがなくなって仕方なく目を閉じた。
思考が高熱によって鈍くなっている。ありとあらゆる方向に枝が伸びていくのだが、それらはすべて霧のように消えてしまう。何も考えることができない。体調はよくなる気配を見せず、苦しさだけが体内を漂っている。感情はそんな辛さと結びついて激しく揺れ動いているが、理性はそれに対してうまくリアクションをとることができない。今の頭の中はそういう感じだ。なんとなくばかばかしくて、悲しさのにおいがすることしかわからない。
昼過ぎに目が覚めた。いつの間にか眠っていたらしい。スマホを見ると両親から体調を心配するメッセージが届いていた。とりあえず返事は後回しにして寝返りをうつ。また口の中が渇いている。汗でシャツが湿っている。めまいと頭痛が躍っている感じがする。それでもさっきより意識ははっきりしている。自分の存在をまず確かめようと思い、両目を固く閉じて意識を集中した。すると今になって新幹線代の損失が痛々しく響いてきた。後悔を振り払おうと目を開けて部屋の中を見渡す。なんとなく悲しかった数時間前より、この部屋の空気はよどんで重たくなっている印象を受ける。7畳の部屋。テレビ、座椅子、PC、洗濯物、本棚と本たち、コート、スーツ、キッチンへ続くドア。すべて僕のもののはずなのに、すべてが僕を向いていない気がする。
僕は孤独だった。病熱が体と心を支配し、孤独に形を変えて僕を飲み込んだ。
「あと少しで今年も終わりだね。ねえ、どんな年だった?」
どうしてサトミは最後にそんなことを聞いたんだろう。
僕はそれになんて答えたんだっけ。そのあと彼女に対して同じ質問をしたら、笑って遠くを見たまま何も言わなかった。たぶん、もっと大事なことを考えていたんだろう。その話題のうまい切り出し方について。
振り返っても何も思い出せない。今年の始まりに君と話したはずの「なりたい自分」なんて記憶のどこにも残っていないけど、そこには少しも近づいていない自分がここにいることはわかる。
君がいなくなって僕は一人になってしまった。この一年間がすべて、サトミとの最後の瞬間に向けて動いてきたように思えてくる。今、僕はこうして熱に侵されて孤独のようなものを感じているけれど、それは今に始まったことじゃないような気がする。君がいたにもかかわらず、ずっとそれに囚われていたんじゃないか。僕はいつもと同じように仕事をして家に帰って次の日を迎える。代り映えはせず、ただ僕はちょっとずつ失われていく。その繰り返し。君に何かを与えることができたのだろうか。どうしたらそこから抜け出せたのだろうか。
いつの間にか君が見えなくなっていた。思い出の中に君を収めるのを忘れていた。だから君はいなくなってしまったのだろうか。
「今までありがとう」
6年の記憶は頼りにならない。もう、君の輪郭がぼやけてきた。
頭の中で彼女との最後が何度も再生される。寂しさと自己嫌悪が波のように心の奥を侵食していった。それはだんだん距離を伸ばして襲い掛かってくる。外から雨音が聞こえた。部屋は薄暗く、時間の感覚が狂う。熱を帯びた思考回路は麻痺したまま鋭さを増した。その先端は自分に向けられている。
無意識に立ち上がった。のどはからからだった。僕をベッドに縛り付けていた孤独の管はいくぶんか剥がれ落ちる。入院患者だと僕は思った。深く息を吸った。暑い。熱い。大股で慎重にキッチンまで歩く。さっき使ったコップに水を注いで一飲みした。やっぱり喉の途中で感覚は消えた。闊歩する感情が僕の代わりに飲み干したみたいだった。
僕は冷凍庫を開けて、そこに頭を入れた。二日酔いがトイレに駆け込むような姿勢になったのを、腹の奥で嘲笑った。冷気とジーという音が耳に流れ込む。僕はそれから氷をいくつか手に取り、一つを口に中に放った。舌を這わせてから大きな音で噛み砕いた。風が吹いたように皮膚が震えて、少しだけ自分の体を取り戻したような感じがした。両手で椀の形を作って残った氷をその中で転がした。子気味いい音が跳ねる。僕はそれをベッドまで持っていき、氷を包んだまま横になった。冷気を抱きしめるように体を丸める。ほとばしる体温が氷たちの感触を溶かしていく。それらは透明さを増して指の間から流れ、シーツに消えていく。僕はそれでも指先の檻を強固にしたままにした。ぼんやりとする意識の中で僕は必死だった。
そしてまた、眠りについた。