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映画にまつわる思い出〜自主映画制作〜

私にとっての「映画にまつわる思い出」といえば、やはり、大学時代に所属していた自主映画制作サークルだ。

自主映画制作というものに辿り着くまでには、結構な紆余曲折があったのだけれども。

小学6年生のとき、社会科の授業で、グループごとに歴史モノの劇を発表する、ということが定期的にあった。
小学4年生くらいから、なんとなく「劇っておもしろいな」とは感じていたのだが、6年生の秋頃、ふいに担任の先生から「演技うまなったな」と褒められ、褒められて伸びるタイプの私は、すっかり「演劇大好き♡」となった。
単純すぎて恥ずかしいかぎり…。
あいにく地元中学には演劇部がなく、進学した私立高校で晴れて演劇部に入部したわけだが、先輩も、同級生も、みんな内部進学生ばかり、しかも、みんな当然のように中学から演劇部に所属しているといった精鋭ばかりであった。
私の高校は、内部進学生と外部生の溝が結構深く、私は人間関係の問題で、1年で退部してしまった。

その後、大学生となり、「今度こそ演劇!!」と、はりきって大学内に唯一あった演劇サークルを覗きに行ったのだが、結局入部には至らなかった。
だって、好きな動物を聞かれて「猫です」って答えたら、まわりがシーンとなって、「…普通やな。」とボソッと返されるサークルだったんだもの!!
「猫」で、シーンって!!
「猫」で、シーンって……!!(2回目)
私の演劇への道は、またもや閉ざされてしまったのである。

ところが。

ある日、私のカバンに「映画研究会」のチラシが投げ込まれていたのである。
(どのサークルも、新入生獲得に躍起になっていたので、「投げ込まれていた」という表現は、けっして大袈裟ではない。)
もう、ダメ元、「もうコレがあかんかったら、神様が『お前、演劇やったら、寿命めっちゃ縮むで』ってお告げしてくれてるんやわ、きっと……」という、カスカスの気分、かつ、「もうどうにでもなれ!」というやぶれかぶれな気持ちで「映画研究会」の部室のドアをノックした。
そこにいたのは、「今年は新入生来てくれるんかな…」と、新入生のような雰囲気で不安げにしていた先輩方。
……めちゃくちゃチヤホヤされた。
誤解しないでほしいのだが、そこには女性の先輩も結構いた。
冴えない男子大学生が集まるもっさりしたサークルに新入生の女子1人がやってきたからチヤホヤされたわけでは、断じてない。
そして、そのサークルの先輩方は、男女ともに、もっさりもしていない、フッツーの大学生だった。
かの演劇サークルとの違いに大いに感動した私は、その日のうちに、入部した。

私は、あくまで演者をやりたくて映画研究会に入った。
しかし、ある2つの出来事が、私を演者ではなく、制作者への道に進ませてしまったのである。
(プロの制作者にでもなったみたいな書きぶりが、ちょっと自分でも癪にさわるかんじである…。)

まず、1つ目の出来事。

入部した翌週、毎週開催される定例会に顔をだすと、見慣れないノリノリの男の子がいた。
聞けば、先週の私同様、入部希望でやってきた新入生(同級生)であった。
その男の子は、とてもキラキラした目で、「どんどん脚本を書きたい!」「どんどん映画を撮りたい!」と語っていた。
もちろん、その話を聞いて、先輩方は「おぉ〜、期待の星がやってきた〜!!」と目を輝かせていた。

私は、嫉妬したのである。
静かに、でも、激しく。
にこやかに、でも、めちゃくちゃ激しく。

けっして、先輩方がその男の子をチヤホヤしていたからではない。
私としては、当時のやりたいことはたしかに演技であった。
しかし、演技は、作り出された脚本を元に、自分の全身をのせて表現していくこと。
ゼロから何かを作るわけではない。
対して、脚本執筆や撮影、編集作業などは、ゼロから何かを作りだす行為。

もちろん演技も奥が深く、ひとつのセリフをとっても、その表現方法は何通りもある。
きっと正解なんてない。
正解かどうかは、その演技を見た人が決めること。
「この演技が素晴らしかった」と思う人にとっては正解であるし、「この演技はイマイチ」と思う人にとっては不正解である。
つまり、同じ演技ひとつに正解不正解が混在する、と、私は思っている。
ゼロから何かを生み出しているわけではないが、たしかに難しいことである。

ただ、私にとって、ゼロから何かを生みだす行為は、演技をすることよりもはるかに遠いこと、何度か生まれ変わらなければきっとできそうもないこと…、とにかく、想像もできないくらいに難しそうなことだったのである。

それを、「やりたい!!」と、平然と、堂々と言ってのける。
とてもキラキラした目で。
私と同じ年数しか生きていない男の子が。

くやしい。くやしいくやしいくやしい。
私だって、そんな、ゼロから何かを生みだす行為がしてみたい。

元々、私の心の奥底にあったのか、単純な私が場の雰囲気に触発されてしまったのか、今振り返ってもよく分からないのだけれど、まず、この出来事が、私の制作意欲を掻き立てたのである。

ちなみに、その男の子は、小説を執筆するサークルと兼部していて、3ヶ月と経たない間に幽霊部員となってしまった。
この、梯子の外されよう…。
いや、彼はけっして私の前に梯子を立てかけたわけではないので、この恨み節は少々お門違いなことではあるのだけれど…。
制作意欲を掻き立ててもらえて、その後、卒業までに、一応5本の映画を撮ることができたのだから、まぁ良い出会いだったというべきか。


次に、2つ目の出来事。

制作意欲マンマン、ノリノリボーイとの出会いからさらに1週間後、毎年恒例、新入生歓迎のための大学祭が開催された。
入部した映画研究会は上映会を開催していて、はじめて、どんな映画を作っているのか観にいったのである。
即日入部しておいてこの言い方はないだろうが、私は、学生の自主制作映画なので、観ているこちらが少し気恥ずかしくなるような、自分の哲学を語るような、自己満足の(失礼!)映画が上映されるものだと覚悟して観にいった。

ところが。

私がそこで一番初めに目にしたものは、チャップリンを彷彿とさせる、モノクロのコメディ映画だったのだ。
しかも、そういった作品は何本もあった。
どの作品も、ストーリーや映像表現が、ちゃんと面白かった。

……学生が、こんなものを撮るのか。

撮った先輩は、あくまでバスターキートンに寄せて撮ったのだ、チャップリンよりもバスターキートンの作品の方が好きでね、と説明してくれた。
(以降、私が、その先輩にバスターキートンのDVDをしこたま観せられたことは言うまでもない。)

その後上映された、別の先輩の8mmフィルムのカラー映画も、色彩やストーリーが素晴らしかった。

……ここ、芸術大学やったっけ??

と、錯覚するくらいに。

クオリティの高い自主制作映画を観せられて、私の制作意欲はさらに掻き立てられたのである。


しかしながら。

制作意欲が掻き立てられた、とは言うものの、私にとって、ゼロから何かを生み出すことは、何度か生まれ変わらないとできそうにないことであって。
そこから半年間、脚本が書けなかったのである。
ネタの端くれさえ、まったく浮かんでこなかった。

そんななか迎えた夏合宿。
田舎の公民館を借りて、1週間泊まり込み、日焼けで真っ黒、汗だくになりながら、がっつり映画撮影をした。
監督は、かのバスターキートン大好きボーイ。
合宿で撮った作品は、カラーのミステリーものだったのだけれど。
入部当初の私の意を汲んで、出演頻度の高い役をあてがってもらった。
夏合宿に行く前も、授業の合間にちょこちょこ映画撮影に参加していたのだけれど、1週間もがっつり撮影だけに取り組むのは初めてのこと。
この、がっつり撮影と向き合った期間が、私の制作の第1歩を後押ししたのである。

なんでもいい。
初心者、処女作なんだから、積もり始めの雪のように踏んづけられて簡単に溶けてしまいそうな、1分くらいのクソおもんない映画でいい。
それで、お金を貰うわけでもなし。
コンクールに出品するつもりもなし。
クソ映画だからって、命がとられることもなし。
とりあえず、なりふりかまわず撮ることから始めてみよう…!!

こうして、合宿を終えて1ヶ月後に、私は初めての脚本を書き、それこそ4分くらいの短い短いクソおもんない処女作を撮ったのである。
いま振り返っても、私はその作品で何を伝えたかったのか、とか、そもそも何がおもしろいと感じて脚本を完成させられたのか、とか、本当に不思議で、消し去りたい形ある黒歴史である。
ご出演くださった先輩、撮影や編集の方法を教えてくださったキートンボーイには、失礼な話であるが。

ただ、やはり、なりふり構わずとりあえず何かを撮ってみたことが幸いしたのか、以降の私は、卒業までネタ切れすることなく、脚本執筆、映画制作を続けることができた。
(3回生時には、史上初の女性部長にも就任した。)
ちなみに、2作目はミステリーもの、3作目4作目は恋愛もの、5作目は青春ファンタジーものである。
2作目のミステリーものは結構外部(他大学の学生)からの受けが良く、さらに5作目は自分のなかで一番しっかりした構成の脚本が書けたと自己満足しているので、来年退職して、もし少し時間が出来たら、小説に仕立て直して、noteに載せていけたらいいな…という望みがある。
あと、留年しない程度、就職浪人にならない程度に学生としての活動もそこそこしていたため、時間がなくて、脚本化、映像化できないまま十数年あたためているネタもあるので、それも、なんとか出来れば…と考えているところ。


以上が、私の人生で一番の「映画にまつわる思い出」である。
この記事を書いてきて、今、ひとつ感じていることがある。
あの制作意欲マンマン、ノリノリボーイに激しい嫉妬を感じていなかったら、そして、映画研究会で映画を撮っていなかったら、今頃、私はnoteに登録して、こうして記事をあげることもなかったのだろうと。
かのノリノリボーイ、映画研究会、たった4年ではあったけれど自主映画制作に関わっていた自分が、今のnoteに繋がっている。
noteに出会って充実した今の生活に繋がっている。
あのとき関わりがあった人たち、変かもしれないけれど、自分も含めて…に、感謝である。


びっくりなあとがき

実は「あのとき関わりがあった人たち」の1人が、現在の夫であったりする。
(ノリノリボーイやキートンボーイではない。)
あのとき、やぶれかぶれな気持ちでも、映画研究会のドアをノックしていなければ、今頃、独身で、こうしてかわいい娘にも出会えていなかったかもしれないということ。
今日、帰ってきたら、「なんか、ありがとう」って夫に言っておこう。
(ていうか、誰得のあとがきで、かつ、誰がびっくりするねん、という話。)

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