責任って、なんだ? 生きづらさを感じる社会
今日も誰かがどこかで責任を取っている。
「責任を取って、辞職いたします。」
「責任者、呼んでください!」
「あなた、無責任な人ね、、、」
「刑事責任が問われています」
「この仕事は私の責任でやります」
などなど、社会に出れば、ニュースを見れば「責任」の話で持ちきり。
何か事件が起きれば「責任の所在は?」となる。
自己責任って、なんだ? ~釜ヶ崎合唱団~というノートでも触れましたが、
そもそも「責任」ってなんだろう?と考えた。
というのも、ある日私のパートナーがいきなりこんなことを言ってきたのだ。
「責任ってさあ、ホントは存在しないんじゃない?」
「例えば縄文時代とかにはそんなもの無かったんじゃない?」
私のパートナーは、しばしば私の価値観、先入観、偏見、固定観念、既成概念たちをぶっ壊してくれる。ボロボロに。
あと、私達夫婦の会話にはよく「縄文」が出てくるけれど、これはまた別の機会に記すことにします。
「いや、そんな、、、あるでしょ。何を言ってるのよ」
「いや、多分無いよ」
「そんなバカな、、。だって世の中責任だらけじゃん。仮に私が誰かを殺したとしたら、私に責任があるでしょ?」
「いや、無いよ」
「(あれ?、、、ついにサイコ野郎になっちまったか、、、?)」
「というか、もともとは無かったのに、誰かが作り上げたものだと思う」
「???!!!」
ボロボロ、ボロボロ、、、
いや、そんな、、、、こと、、ある?
かな?
いや、待てよ、、、
確かに、、あり得る、、誰かが誰かを都合よくするためにつくりあげられた言葉なのか、、?!
いったい全体、「責任」って、なんだ?
釜ヶ崎合唱団の時には「自己責任」について考えた。
路上生活者達は自己責任で、不幸になってるのか。それとも、仕方ない状態でなっているのか。
これはおおよそ、自己責任とは言い難い状況で、苦労している人がほとんどの印象だった。
私は彼等の人生の話から「自己の存在の偶然性」を見いだした。
「ひょっとしたら、ひょっとすると、この本で語ってくれている人々は、もし自分がこの時代に生まれていたら、自分だったかもしれないな」
※釜ヶ崎合唱団で語ってくれている路上生活者の人々は主に、戦後の高度経済成長期、バブル期、バブル崩壊後を生きてきた。
この「自己の存在の偶然性」について、とてもわかりやすいなと思った言葉がある。
「実力も運の内」
これはアメリカのマイケル・サンデルさんの言葉です。
中島岳志さんの著書「思いがけず利他」で紹介されていました。
マイケル・サンデルさんはハーバード白熱教室、これからの正義の話をしよう、で有名な方ですよね。
、、、ごめんなさい、どちらもちゃんと見たこと読んだこと無いです、、。
でも名前は知ってる。
この言葉、「運も実力の内」の逆ですね。
私達が現在置かれている立場や状況というのは、ほとんど実力のみ(自己の力)で手に入れたものではなく、大量の「偶然」の上にあるものなのです。
私達はこれを的確に捉えることが出来ず、自分の実力で物事を動かした!と錯覚することがあるのです。
どんな成功体験でも、陰ながら支えてくれた人や、間接的に関わってくれた人、予期せずして後押ししてくれた状況などが存在する。
私が今現在の私であることも、すごい偶然の連続の結果なのです。
こうなってくると、私が私以外の他者であった可能性すら浮上してきます。
釜ヶ崎合唱団を読んだときの「ひょっとしたら、これは私にも起こり得たな」という感覚です。
これは責任にも言えることだと思います。
例えば仕事で何かミスを犯したとしても、ミスを解明すればするほど、その人個人だけに責任を求めるのが無茶な構造がみえてきます。
ここで、ひとつ責任の特徴がみえてくるのではないでしょうか。
・実は責任の所在の証明は難しい、または不可能と思えるほどに複雑
様々な偶然の上に成り立つ個人に、あらゆる偶然の上に成り立った事情の因果関係を求めること自体に、無理があるのではないか、と考えます。
またパートナーに、言われて直ぐに思った特徴もあります。
・原因や要因など、別の言葉で置き換える事も出来る
私達は何か問題を起こしてしまうと、すぐに自ら、責任を認めてしまいがちですよね。
その方が楽なこともある。
でも単純に「原因」や「要因」というものでも表現できたはずだったものを、積極的に責任にしてしまうこともあります。
例えば風邪で仕事や学校を休む、という場合。どんなに気を付けて、体調管理していても、風邪を引いてしまうこともある。インフルエンザ、コロナ等かかっても仕方のない感染症もたくさんある。
感染症に罹患したこと、それは本来、仕事や学校休む「原因」や「要因」であるだけにすぎないはずなのだが、、これが社会的に見ると急に「責任」というものが追加されてくる。
仕方のないことなのに、罪悪感まで生まれてくる。
私はこの特徴には危険性を感じざる得ない。
ここでふたつの特徴がみえてきました。
・「責任」は社会的なルールの上で発生してくる
・使い方を間違えると、危険な言葉である
そして、先に責任を認めてしまうことで楽になると書きましたが、それがもうひとつの危険性を生んでいると思いました。
・責任を認めてしまうことで、問題の本質や因果関係があやふやなものになる
そう、本人が認める必要もない責任を、存在しなくても良い責任を認めることで、周りはそれ以上その問題の関係性把握や本質に目を向けにくくなってしまうのではないかということです。
これをすると、先の「ひょっとしたら、これは自分にも起こり得たのではないか?」という、偶然性に目を向ける機会を減じてしまう恐れもあると思います。
この「責任」という言葉が持っている危険性を指摘している方と本を見つけました。
責任という虚構
小坂井敏晶 社会心理学者
https://www.webchikuma.jp/articles/-/1945
増補番の発行に伴って著者が自ら解説している文章を見つけました。
一部抜粋しますと、、
「人間は自由だから、その行為に責任を持たねばならないと我々は信じる。だが実は逆に、責任を誰かに課す必要があるから、人間は自由だと社会が宣言するのである。自由は虚構であり、見せしめのために責任者を捏造して罰し、怒りや悲しみを鎮める政治装置だ。」
「近代は自由と平等をもたらしたのではない。不平等を隠蔽し、正当化する理屈が変わっただけだ。自由に選んだ人生だから貧富の差に甘んじるのではない。逆だ。格差を維持するために、能力の低い者や努力しない者の不幸は自業自得だと社会が宣告する。」
まさに私のパートナーが先に言っていたような仕組みが「責任」というものには、あるようです。
この「責任」を少し考えることで、今の社会の生きづらさの正体が少し見えてきた気がしました。
これは有史以来の生きづらさなのかもしれない。
また、小坂井さんの文章を読むと「自由」というものにも実は生きづらさが隠されていそうだ。
これはまたの機会に考えてみることにしよう。
おわり
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