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戦後75年というけれど・・5

今年93歳になる戦争体験者の久保沢さんへのインタビュー。もし、戦争中に自分が10代の若者であったら、ここまでのことが果たしてできただろうか?故国から遠い果てしない台地を目の前にして諦めてしまうのではないか?と考えさせられた話だった。

【たった一人動かぬ残骸牽引車を輸送して天津へ】

6月初め中隊長から派遣を命じられました。整備班が保管している89式ガソリン機関牽引車の空爆損壊を修復するため、天津にある野戦自動車廠施設への派遣でした。


牽引車の損壊の程度はとてもひどく、原型は全く無く鉄骨車台とキャタピラーを支える焼けてゴム輪のない鉄製転輪のみ。エンジンは、外套ピストンクランク軸が全部分解され箱詰めになっていました。

移動に邪魔になる履帯(りたい)は外して個々に分解荷箱にして車台に縛り付けました。鉄と鉄が擦れる転輪のギシギシ音、鉄輪が土に食い込むガリガリ音、異様な回転音の残骸車となっていました。他の中隊の砲はゴム車輪の台車に搭載し、中国人馭者(ぎょしゃ)つきの牛力の牽引で許昌駅に向けて出発しました。


許昌駅には夕暮れ時に到着。その時間帯は米軍の飛行機の飛来がない時間帯であり、私たちは直ちに貨車へ搭載を始めました。戦車隊三輌などのトラック三輌を含めた全車輌の指揮官は准尉(じゅんい)でした。

列車は夜間運行のみの制約から発車時刻を早めて走行距離を長く確保したい思惑がありました。戦車などは自走できましたし、ゴム車輪の台車も人力で搭載できました。が、転輪車だけは、4,5人の人力だけではビクともせず、ウロウロする時間ばかりが過ぎていきました。指揮官の准尉は発車指示の挙手をし、列車が走り出してから私にこう言ったのです。

「久保沢、その転輪はお前ひとりで天津まで運んで来い」そう言い放ち、貨車とともに消えていきました。今、思えば、准尉のひがみがあったのでしょう。というのは、私たち陸軍野戦砲兵学校卒業生は、エリート集団だったので何かと妬まれ、いじわるされたのだと思います。

さて、たったひとり、許昌駅に残された私。食べるものさえありませんでした。この時から訓練に無かった19歳少年自走砲兵の転輪四トン牽引車の天津までの輸送作戦が始まったのです。部下なく、上官もいず、食料もみんな
貨車に積んでしまったものですから、何ひとつ残っていません。

思案に暮れてふと駅のホームを見回すと南京豆の収穫期だったのでしょう。大量の南京豆の入った南京袋が積まれているのが目に入りました。私は自分の飯盒(はんごう)にその南京豆を入れ、近くの農家に駆け込み、豆を炒ってもらって食べ、その後は屋台で、南京豆を餃子や饅頭と交換したりで飢えを凌ぎ天津を目指して進みました。

昼間は爆撃があるのでここでも夜間のみの移動。駅から駅への移動を繰り返しました。当時、各駅には平坦司令部(物資や労働者を提供する組織)があり、日本人が必ず1人は在住しており、戦車の転輪をロープで引く中国人を20名くらい提供してくれました。

許昌駅から天津駅まで1週間程度の道のりを約1か月以上かけ、七月初めに、ようやく私は天津の街にたどり着いたのでした。・・・つづく

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