戦後75年というけれど・・6
今年93歳となる戦争体験者の久保沢さんへのインタビュー。太平洋戦争末期に派遣された中国で、当時の中国人とのやり取りも鮮明に記憶されていた。占領下における中国人との親交の話も興味深いものであった。
【貨車輸送中の中国人との親交】
当時、貨幣は日本が発行する「軍票(軍隊が発行した紙幣)」と中国で発する「連銀券(中国連合銀行券)」の二種類がありましたが、軍票は沖縄戦の戦況により、相場が変動するため全く信用がなく、従来の半額の価値しかありませんでした。
ですが、私の貨車輸送に、各兵站(人員・兵器・食料などの補給をする場所)ごとに労務してくれた中国人青年たちには平坦司令部から軍票支払いでした。しかし、連銀券の半額以下には絶対ならず、7,8割止まりだったので、失業救済の意味もあってか大変好意的に協力してもらいました。
天津駅までの移動で手伝ってくれた労働者の若い中国人からは、よくこんなことを言われました。
「お前たち、日本人は中国から漢字を教わっておきながら、先生の家
に無断で軍靴で入り込む野蛮な非礼を恥じないのか?」とか
「今のままでは、完全な武器不足で絶対に勝てない。満州で軍備拡張の準備を2,3年すれば、良かったのに」などなど。
10代の私にとっては判断のできない問題に揺さぶられたものです。
また、ある日駅での夕暮れ時、私たちの貨車前に中国人夫婦と娘3人が貨車に便乗を懇願してきました。わけを聞いたら客車の定員が満杯で締め出しに
なり、1日待たなければならないが、そうなると親戚の葬式に間に合わないとのこと。
貨車いっぱいに戦車などが積載され、3人が入り込む隙間など少しもありませんでした。ただ、私たちの貨車は前後に少しだけ隙間があり、三人なら入り込めそうだったので、その中国人家族の乗車を承諾し、アンペラ(むしろのようなもの)を彼らに提供しました。
翌朝、列車が停まって目を覚ました時には、中国人家族の姿はどこにもありませんでした。後々、この行動は軍用列車に敵国人の乗車を許した重大な軍律違反だったのではないか?と未だに私の胸で葛藤している出来事でした。
しかし、私個人の考えを言わせてもらえば、中国人が自国の客車に乗車できないのは、異国である日本の軍隊が列車を占有しているためであり、その不合理に反発し乗車に同意したものであったのです。
戦地での不条理を、つくづく考えさせられたものです。・・・つづく