【研究ノート】微笑むための「多様性」から、生きるための多様性へ
いつの間にか「様々な人が幸せそうに微笑んでいる一枚の写真」が多様性の定義になっている。細分化され続けるセクシュアリティは、分かりやすく「多様なLGBTの人たち」のイメージを創出する。「多様な人たち」を安全圏から眼差す特権者は、多様性の実現という幻想に惑わされ、周縁化された人々の存在という抵抗をないものとする。「彼氏いないの?」と聞いてくるその口で、「今は多様性の時代だから」と言う。
しかし、本来、多様性とは、隅に追いやられ、言葉を奪われ、それでも生きのびている他者をいないことにしないための言葉であるはずだ。写真にうつっていない人の存在を無視しないこと。うつれなかった、うつらなかった理由をなかったことにしないこと。カメラを通してではなく、自分をその場に差し出し、揺らぐこと。
それは時に、価値観や立場の異なる他者と共に生き、向き合うことであり、それまで信じてきた自己像から、こぼれ落ちた自分を引き受けることである。
カメラのこちら側か向こう側に安寧の地を求めるのではなく、自分に向き合い続け、自分を生きたい。それが私がクィアを自認した理由である。ただ、「定義されない・しない」が故にクィア自認者が不可視化、無化されてきたこともまた事実だ。聴かれることなく、いないことにされてきたクィア自認者の声を、聴きたい。
#多様性を考える #クィア #LGBTQ #LGBTQ + #クエスチョニング
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