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地域の悲史 鳥取県

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鳥取県内の地域の悲しい歴史を物語る遺跡を紹介しています。
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#米子城

旅の終わりに・1-鳥取の名峰 大山-

前回の鳥取城の人柱の記事で、今回の訪問記は終了です。 今回は鳥取県西部の米子市からスタートし、鳥取市がラストになったので、大山(だいせん)のいろいろな姿を見られたことも収穫でした。 最後に、旅の途中で見た大山の姿を、ずっと以前に撮影した古い画像も合わせて紹介いたします。 大山について 大山は標高1709m。中国地方の最高峰です。大山の最高点は剣ヶ峰の1729mですが、剣ヶ峰に達する稜線が激しく崩落して危険なことと、古来から弥山(みせん)が山頂として扱われ、信仰を集めていた

柳生宗章の供養塔-恩義に殉じた知られざる柳生の剣豪-

剣豪として有名な柳生宗矩の兄に当たる人物が、米子の町で生を終えています。人柱伝説と並ぶもう一つの米子城の悲劇を紹介します。 横田村詮 前の記事で、米子城についてはくわしく説明したので(米子城-人柱にされた娘-|Yuniko note)、ここでは簡単に。 米子城は豊臣政権下で出雲・伯耆を支配した吉川広家によって着工されました。しかし、吉川広家は関ヶ原の戦い後に周防国岩国へと去り、代わって駿河国駿府城から中村一忠が米子城主になりました。この時、一忠はわずか10歳。幼少の一忠に

米子城-人柱にされた娘-

かつて、城や土手、橋などの工事を無事に完成させるために、人間をいけにえとして捧げる「人柱」という風習があり、全国にその伝説が伝わっています。鳥取県西部の米子城に伝わる人柱伝説を紹介します。 米子城・1 米子城は米子市の中心部近く、中海に面した湊山(90m)に築かれていた城です。 戦国時代には小さな砦が築かれていたようですが、豊臣政権下で毛利氏一族の吉川広家が居城の月山富田城が山奥で不便なことを厭い、水陸交通の要地である湊山に着目して築城を始めました。 吉川広家(1561