米子城-人柱にされた娘-
かつて、城や土手、橋などの工事を無事に完成させるために、人間をいけにえとして捧げる「人柱」という風習があり、全国にその伝説が伝わっています。鳥取県西部の米子城に伝わる人柱伝説を紹介します。
米子城・1
米子城は米子市の中心部近く、中海に面した湊山(90m)に築かれていた城です。
戦国時代には小さな砦が築かれていたようですが、豊臣政権下で毛利氏一族の吉川広家が居城の月山富田城が山奥で不便なことを厭い、水陸交通の要地である湊山に着目して築城を始めました。
吉川広家(1561~1625)
吉川広家は「毛利両川(もうりりょうせん)」の一翼として毛利元就、毛利輝元を支えた吉川元春(毛利元就の次男)の三男として生まれ、兄の元長が若くして亡くなったため吉川家を継ぎました。
吉川広家を有名にしているのは、関ヶ原の戦いでの暗躍です。広家が仕えた毛利輝元は石田三成を中心とした西軍の総大将になりましたが、広家は西軍の敗北を予想してひそかに徳川家康に内通し、惣領の輝元を戦に参加させないことと毛利本家の領地を安堵することを確認します。
関ヶ原本戦では、背後に控える毛利秀元(輝元の名代)、安国寺恵瓊、長宗我部盛親らの部隊が参戦するのを牽制し、徳川家康率いる東軍の勝利に貢献します。
戦後、徳川家康は西軍総大将だった毛利輝元の罪を責め、輝元の領土を没収し、代わりに吉川広家の領地を倍増することとします。これに驚いた広家は「わが領土に変えても毛利本家を残してほしい」と家康に哀訴し、結局、広家に与えられる予定だった周防国・長門国(いまの山口県)が輝元に与えられます。
江戸時代を通じて吉川家は毛利氏の家来として扱われ、「先祖の広家が関ヶ原での敗因を作った」として毛利本家から冷遇されたということです。
なんというか・・・・こそこそと立ち回るのはよくないという見本のような話です。
米子城・2
吉川広家による築城は豊臣秀吉の朝鮮出兵による動員などでなかなか捗らなかったのですが、それでも「十のうち七、八はできていた」そうです。
関ヶ原の戦いで敗れた吉川広家が去ったあと、米子には駿河国駿府城主だった中村一忠が入ります。幼い一忠に代わって政務を取り仕切った横田村詮によって米子城は完成され、米子の町造りがなされます。
中村一忠が夭折して無嗣断絶したあとは、加藤貞泰、池田由之・由成と続き、最終的には鳥取池田家の筆頭家老を務めた荒尾氏が城主となって明治まで続きました。
米子の俚謡に「さてもみごとな米子の城は 天守9つ 櫓は7つ 裏は大海4つの海」と謳われた山陰随一の名城でした。
特に湊山の頂上には、吉川広家が築いた四重の副天守、中村一忠が築いた五重の天守が聳え立ち、壮観を誇りました。
明治維新後、城の建物は残らず取り壊され、「風呂屋の薪にされた」と伝えられています。
人柱にされた娘
吉川広家が米子城を築城していたときのこと。城の高石垣が何度積み上げてもそのたびに雨が降り、崩れ落ちました。やがて、築城に携わる人たちの間で、「地の神が怒っていなさる」「地の神の怒りを鎮めないと・・・・」とささやかれるようになりました。
夏の日、米子の町で盆踊りが踊られていました。その踊りの輪に、馬に乗った武士の一団が躍り込むと、町一番の美女と言われていたお久米という娘をあっという間にさらって、いずこへか走り去っていきました。
お久米はその夜のうちに湊山に深く掘られた穴に埋められて人柱にされたということです。ほどなく城の石垣は崩れることなく完成しました。
しかしその後、米子の人たちは人柱にされたお久米を哀れんで、長い間、盆踊りは行わなかったということです。
米子城から見た御来光
この日(9月14日)米子城に登ったのは、夜明け前の5時50分頃でした。ちょうど日の出の時刻だったため、大山(だいせん)から登る御来光を拝むことが出来ました。
人柱伝説について
人柱の伝説は、城や土手、橋や道路などの難工事に伴う伝説として日本各地に残っていますが、確証がとれているものはほとんどありません。
ただ、道路工事や土砂崩れなどで伝説通りに人骨が出土した例が稀にあります。新潟県上越地方にも「人柱伝説が事実だった」と確認された例がありますが、その地は未訪問なのでまたの機会に。
米子城の場所
<参考資料>
・山陰名城叢書1 米子城 編:中井均 ハーベスト出版 2018年11月10日発行
次回予告 柳生宗章の供養塔-恩義に殉じた知られざる柳生の剣豪-
剣豪として有名な柳生宗矩の兄に当たる人物が、米子の町で生を終えています。人柱伝説と並ぶもう一つの米子城の悲劇を紹介します。
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