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やっと、「今」に来れた日。
今日は、とても大事な日だった。カウンセリング28回目。
最近は結構、プライベートが充実してて、工作したり、人生で初めてオリンピック見てたりしてた。絶対興味を持つことがないと思ってたスポーツの世界を楽しんでる自分は好き。いままでは、どうせ自分にはできない世界だという思いが先に出てきて、みるのが苦しかったから。
来世はやる専になるぞ。だから、今世は見る専のガチ勢でいいじゃん、と心に折り合いをつけれたことが大きかった。
今日も何を話そうかなとかは、なんも考えずにカウンセリングに行った。
前日は、やっぱり頭が痛くなった。実家の自室にいるような感覚になって呼吸が荒くなって涙が出てきて、命がある者に触りたいと思った。
愛猫に触ったり、抱きしめたりしてたら温かくて落ち着いた。カウンセリングに通う前も動物は命あるものだと思ってたけど、カウンセリングに通い始めてからは、なんというか、ああ、本当に命がある生き物なんだなと感じるようになった。
今日のカウンセリングは、映像がたくさん。やっぱり愛ちゃんのモードだったんだけど、いつもの暗い穴の中に焚き火があって、白い階段が1段あって、穴の深さが浅くなってた。
そこからカウンセラーに親のことを話してると、自分がされてきたことは虐待なのかわからないという気持ちと、虐待だと思うけど認めたら自分が可哀想すぎるという、最近良く思ってた感情が溢れ出してきて、その気持ちに浸ってると、少し遠くに蓋のついた穴?みたいなのが見えた。
その蓋は重そうな金属でできていて、遠くから見るとそれほど大きくないのに、近づくとすごく大きくて開けられそうにない。持ち手はついてるけど、それも大きいから意味がない。
どうしよう。無理だなあと思って蓋の前で立ちすくんでたんだけど、片手で触ると蓋がクルクルと回り始めてプラスチックになった。
「開けられない。クルクル回って怖い」と言う私にカウンセラーは、「蓋は開きたいと思ってるんだね」というような言葉を言ってくれた。
それを聞いて、そうか、蓋は開きたいのか、ならクルクル回っても仕方ないな。止める意味はないなと思った。
そしたら、蓋が消えて眩しい穴が現れた。穴なのに、なぜか嫌な感じはしなくて、はしごがあるから、下に降りることができた。
ひとりは怖いから猫や鹿と一緒に下に降りると、すごく眩しくて、その光に慣れなくて困った。でも、腕があったかくなってきて、そのポカポカ感が心地よくて、あったかいなという想いに浸ってると、徐々に景色ができていった。草原や川ができた。
一緒に降りた動物たちは思い思いの場所で伸び伸び過ごしてて、私もそうしていいんだな、私は人間なんだなと思った。
そしたら、森と星空が見えた。星空を眺めていると、大学時代のメンタル合宿の時のことを思い出した。
帰り道、ひとりで泣いてた記憶。誰かを助けたいと思ってたのに、こんな私じゃ無理だなと気づいた時の無力感。だから、まずは自分を大事にしたくて、自分の気持ちを知りたくてルーズリーフいっぱいに想いを書いてたときのこと。
それを母親に見られてると知ってからは、これは誰かに見られてもいい気持ちなのかと、自分の書いた気持ちをチェックして、監視するようになったこと。
書いた言葉にマーカーを引いて、こう思ってるの馬鹿なんじゃない?とか、この考えは間違ってるんじゃない?と自分の気持ちを監視してはコントロールしようとしたこと。
見られたくなくて、ぐちゃぐちゃに丸めてゴミ箱に捨てても母親に発掘されるから、気持ちを書いてはビリビリに破るしかなかった日のこと。
私の気持ちは誰かに見られる用のものでなくてよかったし、ビリビリに破っていいものじゃなかった。
その後も人に言えない分、ルーズリーフや紙や日記に気持ちを綴っては見返していたけど、始まりは監視のためじゃなかった。ただ、自分の本音や大事な想いを知りたいだけだった。
自分でも忘れていた、その始まりの記憶を思い出した時、そうだったなとハッとしたし、たまらなく自分が愛しくなった。
そしたら、周りの世界は余計に眩しくて温かくなった。
前にいた暗い穴じゃなくて、ここにいたい。そう思ってたら、自分のいる小島みたいなところから少し離れた左側に大人の私と空と憂の姿が見えて、ああ、こんなに近くにいたんだ、近くに来れたんだと思った。
そこでカウンセリングは終わったんだけど、帰りの電車内でイヤホンから、ふいに流れたBUMPのプレゼントを聞いてたら、泣けて仕方なくて。
これは愛ちゃんの心をそのまんま表した曲だと捉えてたんだなって思った。だから、何回聞いても泣けて仕方なかったんだなって。
目を閉じながら、その曲に浸ってると、柔らかいノックの音っていう歌詞のあたりで、本当に心の中の扉にノックがあって、自分の後ろにあった透明のドアから大人の私と憂と空が来てくれた。
大人の私は左側から肩を組んできて、「やっと会えたね」と言った。憂は右側からお腹に軽くパンチをしてきて、「待ってたぞ」とじゃれてくる。ああ、そうだ、憂はこんなやつだったなと、私(愛)は笑った。
「待ってたんだよ」と大人の私は頭を撫でてくれた。憂も肩を組んでくる。空は私たち3人が肩を組む姿を後ろから微笑んで見つめてる。
私達がいる小島?のようなところは周りに川が流れてるから、誰も来れない。安心。緑もたくさんある。小さな男の子は憂から少し離れたところで、ひとりで遊んでる。
私が「子どもの私は?」と大人の私に聞くと、大人の私の腕の中に子どもの私の姿が現れる。そこにいるのか、よかったと安心する。
私達がいる小島には道がないなあ…と悩んでると、大人の私は、どこかに行きたい時には道ができるんだよと教えてくれて、道を作って見せてくれる。よかった。どこでも行けるんだと安心する。
その映像が頭と心に見えてからは、もう涙が止まらなくて。電車の中なのに泣いてしまって、地元に帰ってからは駐車場に止めてた車の中で1時間以上泣いた。
3人で肩を組んで景色を眺めてる姿を頭と心に浮かべながら、あの頃聞いてたBUMPの太陽を聞いて号泣。車内のクーラーの風がそよ風みたいに感じて、光がいっぱいの小島で3人でまどろんでいるような感覚になった。
心がすごく静か。波立ってない心って、こんなに穏やかなのかと思った。
太陽は、穴から出られなかった私の歌だった。暗い場所に私たちを引きずり込んでしまった私(愛)の罪悪感を重ね合わせてた歌だった。
ホント、歌詞の通り。愛がいる部屋は出れたら最後。もう戻れはしない場所。だから、出たくないと思ってたとこも、きっとあった。出てしまったら、少しだけ感じてた家族とのつながりとかがなくなっちゃうし、あの頃と今は違うことを分からないといけないから。
だから、出るのが怖かった。でも出たら、眩しさに驚いて、綺麗さに見慣れたはずの空や緑が余計にきれいに見えた。それが不思議で、ずっとずっと見てた。駅内の床さえも綺麗で、不思議だなあと思いながら見てた。
そういう景色を見てると、ああ、やっと「今」に来れたんだと思った。ずっと今を生きてるはずなのに、やっと「今」に来れた、私は今を生きていくんだなと思った。
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精神の世界って、本当によくわかんないなあ。なぜ、こんなイメージが浮かぶんだろうと思うものだらけ。
でも、ひとつ分かったのは心に浮かぶイメージは記憶によって作られてるということ。嫌なイメージは、特にそう。
実際に起きたことや感じてたことがイメージという形になって見える。それって、つまり記憶に囚われて、閉じ込められてるってこと。
そういう特徴があるから、その頃と今は違うんだよって自分に伝えてあげるのが大事なんだろうなと思った。
やっと合流できた。やっと今に来れた。嬉しかった。