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#[捨てない生き方]を読んで【第41回】エッセイ&自由律俳句

▶️近くのスーパーに入っている書店📗📘📖が2週間ぶりにリニューアルしたので、待ち遠しくて早速エッセイと雑誌を買った。

いそいそ家に持ち帰ったのはいいが、本棚がパンパンで入らない。[じゃあまた、やるか〜と]。本棚を片付け始めたのはいいが、三十代の頃のアルバムが目についた。[やけにショートカットにしてたんだ][この人、今頃どうしてるんだろ]と物思いにふけってしまった。[いけない!片付けだ!]また本棚に向かう。私は見事に片付けあるあるをやっていた。

こういう無限ループを繰り返してるものだから、さすがに私も[時間を浪費してないか?]と思い始めた。

🤔一口に片付けといっても、私は、これは方法論じゃなくて、モノとの付き合い方、信条、哲学じゃないかと考えた。先人達はどのように考えているのか?

そこで五木寛之著[捨てない生き方]を手にとってみました。

五木寛之氏は現在92歳ですが、多数の連載を持ち、現役で活躍されてます。近年は仏教関係や人生論などのエッセイが多いようですね。相変わらずのダンディぶり。毛量が豊かでおしやれ。

この本の主な内容は次のとおりです。

他●[記憶]の再生は前にすすむためのもの●[ガラクタ]にあふれた部屋こそ自分の城、などがあります。

✨その中から印象に残った項目を挙げてみましょう

▶️生きている限り、[執着]は消えない
 モノを捨て去ってスッキリしてしまおうという生き方は、モノに執着しないという、それで潔い生き方でしょう。しかし、考え方によっては、逆に<捨てる>ということに執着している生き方と言えるかもしれない。モノが捨てられないのは、執着のせいですが、いきている限り執着は消えない
     ↓
👧確かに、今この部屋にあるものを生きてる限りは、すべて捨て去ることはできないですね。服も本も小物雑貨も。大げさに考えないでありのままでいいんだという気になりました。

▶️モノに囲まれる生活が孤独          を癒す
 人生百年時代において、人間関係は変化する。なくられる方や時の流れで疎遠になるひともいる。そんなときにモノは孤独を癒す縁(よすが)になる。モノに囲まれているのは、記憶とともにいきているということなのです。
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👧この見解に賛成です。大切な思い出の品まで捨てることはないと思う。デジタルにするなり、ノートに貼り付けるなり自分に合った収納にすればいいと思う。最近は認知症の人にも回想療法といって昔の話をするのは一定の効果があるとわかっている。

▶️低い点数のモノから捨てられてしまう
人が生きるということは、点数をつけてテキパキ仕分けしていけるような、そんなものではありません。ものすごく雑多な中で人は生きている。
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👧なるほど、片付けの意味がわかったような気がします。やはりモノと言えども、もう人の一部になっていることがある。中々割り切れるものではないから、時間がかかるのです。これは、もういいかと思っても、いや、あの時みんなで…などとなるからです。

▶️終わりに
👧一口にモノといえども、様々な要素が絡んでいる。取捨選択はあくまで個人の裁量に委ねられると思う。

私の場合、映りのいい免許証の写真(何故か1枚だけ恐ろしく映りが良い写真があって気に入ってるし、男友達には評判がいい)、あとは、オセロのトロフィー、せきしろさんと又吉の自由律俳句の本は捨てられそうにないです。


😋さて、では、本日の自由律俳句と参りましょう。本日のお題は『本』です。

📚積ん読自慢ばかりしている

📚紐のしおりにホッとする新潮文庫

📚わかったふりをする哲学書

📚おじいちゃんがうたた寝する古本屋

📚鍋敷きになっている落語本

📚レジに持っていくのが恥ずかしい本ばかり買っている

📚買い取り額10円と聞いて我が耳を疑う

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可愛ユミコ
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