子どもを「尊重する」の、その先へ
こんにちは、lovelyさんです。
このアカウントでは、引き寄せの法則を使って人生をより豊かに楽しみたい方に向けて、エイブラハム直結の情報を私自身の経験とともにシェアしています。
今回のテーマは子育て。中でも「尊重」について。
どうすれば、我が子の望みや選択を、100%信頼して見守ることができるか?について、エイブラハムの引き寄せの法則の視点から書きたいと思う。
子育てに限らず、自分の親や友達、周りの人をもっと尊重したいのになんかコントロールしたくなっちゃうんだよな〜という方にとっても、何か気づきになれば嬉しいなと思います!
さて、以前記事にも書いた通り、私には小学生の息子がいる。学校に行きたくなーいとしょっちゅう言っていて、現状は行ったり行かなかったり。
学校に特別嫌なことがあるわけではなく、気分が向いたり向かなかったりするらしく、現状「自由登校」な状態。
その辺のことについては、こちらの記事で詳しくかいているのでぜひ↓
これを書いた当時は、私自身まだまだ揺れていた。
手放しに休んでいいよとも言ってあげられず、好きしていいよモードのときとあれば、休み過ぎだから行きなよ!モードのときもあって。
どうしたらいいのか?どうしてあげるのがいいのか?何かヒントが欲しくて、幼稚園から不登校ぎみだった方(!)が、経営者となった現在までを書いた自伝本を読んだりもした。(引き寄せの法則の視点から読んでも面白かったです)
学校を休んだ日は最低限これだけはやる、みたいな学習のルールを作ったりもしたのだけど…じゃあ、それは何のため?って、私の安心のためなんだよね。
息子はそんな私に翻弄されていたと思う。
「人生は好きにしていいものじゃーん!」と泣く息子と、それを開き直りに感じて腹を立てる私。(いやいやいや汗)
やりたい方へ
やるべき方へ
行ったり来たりな私たちだったように思う。
あれから、約2ヶ月。
私は毎日、感情をガイダンスに思考をコントロールした。瞑想をして呼吸をして、自分と繋がることに取り組んだことで、ますます自分の感覚に敏感になっていった。
自分の違和感、情熱が湧く感覚、内側の愛と繋がる感覚…みんな違うようで、実はみんな同じなんだという感覚。
やりたいことと、やりたくないことが、明確に感じ取れるようになったのもその一つ。
どんなに好きなことも、やりたいタイミングじゃないとやりたくないし全然やれない。例えばnoteも、書きたいことを「今だ!」という書きたいタイミングでしか書いていないし、そうじゃない状態では書けなくなった。ますます。
書きたいときには、スルスルと書き上がるのに、書きたい気持ちが湧いていないときには、どんなに時間をかけてもどんなに頑張っても書けない。
そんな感覚の違いがすごくハッキリ分かるので、書きたくないときに書こうなんて、そんな非効率でちっとも楽しくないことを、私自身はもう絶対にやらなくなった。
noteに限らず、その他の趣味も、家事も仕事も、ルーティーンで自分を動かすことはやめた。すべて「やりたい」という感覚がきたときだけ。
そんな風に、やりたいことを、インスピレーションが次々に湧いて来るその感覚の中でやることが、どれだけ楽しくて、どれだけワクワクして、どれだけ効率がいいかを改めて身をもって体験している。
自分自身がそういう日々を過ごせば過ごすほどに、我が子がインスピレーションを受け取りながら次々と発想を展開させて真に楽しんでいるときと、そうでないときの違いも、痛いくらいに伝わってくる。
めっちゃ楽しんでるな〜
すごーくやりたくないんだね〜と。
子どもは大人と違ってそれを顔にも態度にも丸出しにするので、そもそも分かり易いんだけど、
ポイントは、なぜその態度になるか?という理由が手に取るように分かるようになったということ。今彼が、どんな感覚なのか、どんな体感なのか、めちゃくちゃ分かってしまう。
宿題がなぜこんなにも延々と進まないか。鉛筆をころがしてみたり、ノートの端を折り曲げてみたり。机に突っ伏して、ぼーっとして、、、あれ?30年前の自分かな?と思うほどに笑、ぼけぇ〜っとして何も進まない具合がハンパではない。もうやばい。笑
でも、分かるのよ。やらされても無理なのよね。内側からの自分の情熱に突き動かされるその感覚がないと、外からどれだけ促されても動けない。その感覚が、痛いほど分かるのだ。
学びって、もっと楽しくて、もっとワクワクして、もっと自分の成長や拡大の感覚を感じられる幸せなものなのにな〜息子にとっても、そうだったらいいな〜と、そんなことを思いながら、宿題を開いてボーッとする息子を眺める日々。笑
学校が好きな子はもちろん楽しんで行けばいいけど、そうではない子にとって、行きたくない場所に毎日通うのも全然意味が分からないんだろうな〜と普通に思ってしまう。
私が何年もかけて少しずつ手放してきた「やりたくないことをしない」を、なぜ私は我が子に強制しているのか??頭では「おかしいよなぁ」と分かっているのだけど、これができないんだよねぇ。
心から許せない。自分の中での「学校は行くべき」という観念から抜けられない。自分のことならカンタンなのに、子どものこととなるとやたら難しく感じる。学校に行かないとどうなるのか、知らないから怖いのだ。
そんな時期は長く、私自身もきつかった。
でも、やっっっっっと感覚が変わってきたのだ。
今までは、子どもを「尊重してあげたい」と思っていたけれど、私が日々深く自分と繋がり始めたら、気づけば「尊重してしまう」ようになっていた。
頭で考えて、私が自分の意見を飲み込んだりして「尊重しなきゃ尊重しなきゃ!」と頑張っているのではなく、もっと感覚的に子どもに共感してしまう自分がそこにいた。
そんな自分の変化に気づいたとき、あ〜〜〜私はついにここまで来れたのか〜!!泣 むちゃくちゃ感慨深くて、よくやってきたなぁ…と泣けたんだよね〜ほんとにさ。
エイブラハムは「人生でやるべきことはひとつもありません」と言っている。そして「もしあるとすれば、それは、あなたがやりたいことです」と。
もうね、ですよね!!としか言いようがないほどに共感しかない。ただ、
「多くの親が、この真実を子どもには教えたくないと思うでしょう」とも言っているのが、私的にはめっちゃオモロい。笑
それほど私たち親が、子どもがやりたくないことであっても、やるべきことだ!と、いかにやらせているか、エイブラハムには見えている。
そう、私だけじゃない。
世界中みんな一緒なのだよね。
だって、私たちだって、そうやって教わって育ってきたのだ。仕方ないのよ。
ただ、私がここ数ヶ月、特に自分と繋がることを強化する中で強く感じるのは、子どもがどうするべきか?は、子どもがすべて知っているということ。
それが腹落ちしてしまった。
子どもには、子どもの引き寄せの法則が働いている。
例えば、子どもが何か望まない経験をしたとしても、その瞬間、子どものボルテックスには子どもの願望が打ち上がる。リラックスして過ごすことで、インスピレーションを受け取れる。そして、後は子ども自身が楽しい行動の中で望みを受け取るだけ。その連続で幸せに生きていけるのだとしたら、
私たちは、どれだけそれを信じられるか、どれだけ黙ってそれを尊重できるか、尊重すると決められるか、どれだけ子どもの直感を邪魔しない存在でいられるか、それに尽きるよな〜と。
やりたいことも、
やりたくないことも、
やりたいタイミングも、
やりたくないタイミングも、
すごく繊細な内側の動き。
だからこそ、外側からは分からない。
親であっても他人には分からないのだ。
そんな直感のすべては、理由も裏付けもないから、人に説明することもできない。だから人に解ってもらうことは難しい。
大人になれば、人に解ってもらう必要などなく、自分で勝手に選択して生きていけるけど、子どもはそうじゃない。
大人のサポートが必要なのだ。
だからこそ、子どもの意見が親である私の考えとは違ったとしても、子どもの感覚を、子どものタイミングを、理由も根拠もなく無条件に信じてあげたいと私は思うのだ。
ただ、これって、我が子への信頼もさることながら、まず私たちが自分自身に対して信頼していることが必要不可欠なんだよね。
自分自身が、自分の直感を信じて生きる方が、どれだけ楽しくて、効率が良くて、どれだけ簡単に望んだ方に進んでいけるかを、体感として理解していなければ、子どもを尊重することはできない。教えるなんてもっと難しいと思う。
どれだけ理想として「子どもの意思を尊重することが大切だ」「そんな親であるべきだ」と頭で理解していても、価値観として「わかっている」「知っている」だけだと、どうしても力づくでどちらかを押し込めるしか無くなってしまうような場面が出て来る。どちらかというのは、子どもの感覚的な意見か、自分の経験や一般論からの意見。それは私もたくさん葛藤したからすごくよく分かる。
頭では尊重したいと思っている。でも反射的に怒ってしまう、心配で口出ししてしまう、自分の思うようにコントロールしてしまう、そんな感じ。自分の内側で、正反対のエネルギーが引きあって、無理をしている感じ。
それがまた、なおさらキツかったりするのだよね。
だから、「子どもは尊重するべきだ」という頭での理解ではなくて、「尊重」がどれだけ愛なのか体感を得る必要があるし、そのためには「子ども」じゃなくてまず「自分」なのだ。
自分が自分を徹底的に尊重して初めて、目の前の人のことも尊重できるようになるのだと思う。
じゃあ、尊重って何?どうすればいいの?
それは、方法としてはいろいろあると思うけど、一つ挙げるとすると、自分の声を聞くことかなと思う。自分の本音を自分で聞いてあげること。
今、何がしたいのか。
冷たいものが飲みたいの?温かいものが飲みたいの?それはコーヒーなのか、紅茶なのか、お湯なのか?トイレに行きたいのに我慢してないか?食べたくないのに、もったいないからって食べてないか?
今、本当はどうしたいのか?
帰りたいんじゃないの?寝たいんじゃないの?一人になりたいんじゃないの?座りたいんじゃないの?
今、本当は何を感じているのか?
悲しいんじゃないの?言い返したい意見があるんじゃないの?それはどんなこと??
お母さんだから、女だから、みんなこれくらいやってるから、そうやって自分を押し込めてないか??
世間や誰かの価値観ではなく、「自分」が感じていること・考えていることを、ただ自分で聞いてあげる。どんなことも。どんな些細な声も、感覚も。
こんなことを思ってはいけないとか、こう考えるのが正しいとか、そんなジャッジメントはせずにただ聞いてあげる。できることがあれば、行動させてあげる。
そうやって、自分が自分を尊重してあげられたとき、我が子のことも自然と尊重してあげられるようになるのかな〜と思う。
自分を尊重するというのは、イコール自分に愛を注ぐこと、自分を大切にするということ。
そうやって自分を大切に扱い、自分に愛を注いでいるうちに、「尊重しなければいけない」という考えは、自然となくなっていくんじゃないかな〜と思う。
「尊重しなければ」ではなく、尊重しかしたくないと思うほどに、自分自身が無条件の愛と繋がれたとき、誰よりも自分が一番幸せを感じながら我が子を見守ることができるんじゃないかな〜と私は思う。
無条件の愛、つまり何ができてもできなくても、私は私で最高、素晴らしい価値ある存在、そんな満たされた感覚の中にいながら、
そのベースの上で家族と関わると、夫に感謝されたいとか、子どもにもっとこうあって欲しいとか、
どーーーーーーでもよくなってしまうのよね。
だって、そんなの関係なく私は幸せだから。笑
とは言っても、私も24時間365日自分の愛と繋がっているわけではないので、いつも子どもにそう関われるときばかりではない。でも、自分を厳しく監視しないというのも、また自分への愛なのかな〜と思う。
監視ではなく観察。寝返りをしそうでしない赤ちゃんを見守るような、そんな優しい視線を自分に向けてあげられたらいいんじゃないかなと思う。
まだホヤホヤなこの感覚。これからどこまでいけるか?リラックスして、楽しみながら実践していきたいと思っている。
というわけで、どんなテーマもエイブラハムの引き寄せの法則の視点で見ると、すべて同じところに帰結する気がするけど笑、
子どもを尊重したいなら、
まず自分が無条件の愛を感じる
そうすることで、
尊重するとかしないとか
そんなことを意識さえしないほど自然に
あなたはあなたの道をどうぞ♡
と思えるんじゃないかな
それが、
私の思う「尊重する」の、その先。
ただ正直、
望みを叶えるだけならば、
こんなに複雑な内観は必要ないと思う。
もっと簡単に考えた方が、簡単に願いは叶う。
引き寄せの法則ってもっとカンタンだから。笑
だけど、
私のボルテックスには、
「もっと子育てを楽しみたい〜!」
「そんな仲間を増やしたい〜!」
「もっと世界を尊重したい〜!」
「もっと自分を知りた〜い!」
「もっともっと深いところで自分を愛したい〜!」
と、そんな望みがあったんじゃないかな、と思う。
そして、そんな無形の望みが叶ったんじゃないかな〜と思うのだ。
息子が見せてくれるコントラストによって、私は新たな望みを抱き、宇宙がそれを用意し、私は受け取ることができた。そういうことなのかなと思う。
欲しかった感覚が手に入る、私にとってこれほどエキサイティングなことはない。
それをこうしてnoteに書いて皆さまに読んでもらえることもね!
自分を無条件に愛するって、ほんっとに無限の可能性があるよな〜と思うのだ。
だけど、何度も言うけど、引き寄せの法則はもっと簡単!誰もがこんな複雑なプロセスを踏む必要はありません。この複雑なプロセスと病的な内観は、単なる私の趣味嗜好、ただそれだけなのでご安心を。
次は、引き寄せの法則がどれほど簡単か、そんな記事を書きますのでお楽しみに。笑笑
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