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こんだけ情報が溢れる世の中だけど、わたしの答えはネットには載ってないみたい。


わたしは昔から、検索魔だ。

誰かと話をしていて分からない言葉や知らないことが出てくると、すぐネットで検索してしまう。
「また調べてる~」と言われることもしばしば。
(納得したらすぐ忘れてしまうので、残念ながらそこまで博識ではない・・・。)




そんなわたしなので、自分のメンタルが落ち込む時期がくると、必死に「答え」を探しにインターネットの海を彷徨ってしまう。


同じ状況だ、というひとを見つけては安心し、回復していく体験談を必死に読み込む。
一筋の光が差したような気持ちになる。
そして一生懸命それに自分を当てはめようとするんだけど、どうにもうまくいかない。「わたしはこの人のようにはなれない・・・だめな奴だ・・・」という自分責めが止まらなくなってしまう。


そんなに人と比べて、自分をいじめて、楽しい!?趣味なの!?
と夫にはしばしば呆れられている。
自分に自信がないから、誰かの正解に縋ろうとしてしまうということなのだろう。



そうだよな、誰かの正解を自分に取り入れて「これが正解!」と言い張るのも、答えを探してインターネットを彷徨い続けるのも、何か違うよな。
そんなことを思っていたとき、ある本を貸してもらった。

「心配事の9割は起こらない」

タイトルを見たとき、「この言葉はよく聞くけど、わたしは1割は起こるんじゃん!とか思ってしまうタイプだしな・・・」と思ってしばらく開かなかったんだけど(すみません)、今のわたしには非常~~~に刺さる本だった。


忘れたくないな、と思うところを少し抜粋する。

余計なことを調べない。情報の”暴飲暴食”をやめる。
どんなにたくさんの情報を集めたって、”したいこと”も”生き方”も見つけることはできません。やはり、自分の心も中に見つけるしかない。そのためには、じっくり腹を据えて考えることが必要です。

情報は、”迷い”のもとになります。情報がありすぎるから、かえって心をどこに置いたらよいか分からなくなります。
(中略)選択肢が多いことは可能性を広げる、という面からも大切です。ただし、その選択肢は絞り込むことが重要。
まず「心の置きどころ」を定める。「いま」できることに集中する。

「世間の常識」から自由になって、でも道を誤らないで生きるには、自分の「ものさし」を持つことが必要です。根底には常識というものを感じながら、ときにそれにこだわらないで自分自身の判断をする指針、ものごとを自分流に解釈するよりどころ。
(中略)実践する中で経験を積み重ねて、体でわかる、つまり「体感」することで、自分にとって正しい判断ができて、もちろん行動もついてくるのです。知識だけでは「ものさし」を持つことはできないのです。

心配ごとの9割は起こらない/枡野俊明


まさに、痛いところを突かれた・・・!と思った。

どちらかというと自分に自信を持って生きてきたタイプだと思っていたけど、メンタルダウンして、その自信はどこかへ行ってしまった。
自信満々だった過去の自分が、恥ずかしくなった。

恥ずかしくなったから、これ以上みじめにならないよう、誰かの真似をしたら安心だと思った。誰かの正解をわたしの正解にしておけば、間違えずに済むと思っていた。


のだけど。

結局は心が宙ぶらりんのままだから、苦しいんだよな~ということに、ようやく最近気付き始めている。



繊細で、極端で、落ち込みやすくて、比べやすくて、緊張しいで、
よく笑って、よく泣いて、よく焦って、
ぐーたらが好きで、自然がすきで、背が低くて、AB型で。

似たような人はいるかもしれないけど、ぜーんぶ揃ったひとは、わたしだけなのだ。
どうりで、膨大な情報があるインターネットにも、わたしにばちっと合った答えがないはずだ、なんて至極当たり前のことを、いま思うのだった。



今はまだ少し心がぐらぐらしているので、落ち着いてからにしようと思っているけど、noteで見つけたやまさきせつこさんの「わたしのトリセツ帖」を作ってみようと思う。
(今も少しずつ、付箋などに色々書き留めている。)


「辛いときに信じるべきものは、ネットに溢れる体験談ではない。誰かにもらうアドバイスでもない。自分が経験してきたことと、考えてきたことだ。」
と、夫は常々言っている。


正解がないのなら、自分でつくるしかない。

情報の暴飲暴食をやめて、誰かの正解にすがるのはやめて、「自分」を取り戻したい。
いまのわたしに、これからのわたしに、きっと1番必要なことなんじゃないかな、と思う。

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