「普通に生きられてしまった苦しさ」もある。ドラマ「大豆田とわ子と三人の元夫#4」の深みにはまる火曜日の夜
ブログタイトルが長すぎてごめんなさい。
だけど本文はおそらくもっと長くなる。わたしは今期はじまったドラマ「大豆田とわ子と三人の元夫」にハマりまくっているから。
毎回、とわ子と元夫たちのコミカルかつ「人間」の描写の妙味がおもしろく、人の長所も欠点も、それらすべての個性もそれぞれ愛しいなぁと思いながら楽しくドラマ鑑賞をさせていただいている。
だけど今回(#4)は様子が、というかわたしの解釈が今までと大きく違ったので、ブログに書き残しておきたい。※ネタバレ含みます。まだ見ていない方はTVerしてください。
恋のはじまりをすっぽかしたのは、逃げているから?
社会から必要とされ、会社の社長を任されながらも内心では辛さを抱えている大豆田とわ子。その親友である綿来かごめはとわ子とは真逆で、会社勤めもアルバイトもままならず、社会に適応できない生きづらさを抱えている。
ふたりは小さい頃から友達で、大人になった今でも大喧嘩できるほどに信頼関係があり、ぶつけ合うことをためらわない羨ましい関係だ。
かごめはとわ子のことを「家族」だと思っていて、それを知ったとわ子はとても嬉しい気持ちになるほどふたりの心の距離は近い。近いのだけど。
今回、かごめの「恋」について軽く言い合いになるシーンがあった。ことの発端はこうだった。とても素敵な男性に見初められ、デートに誘われたかごめを、とわ子は心底嬉しく思っていた。(この気持ちはとてもよくわかる。浮いた話を全然聞かない女友達の「浮きそうな話」を耳にすると「ついに彼女にも春が!」と嬉しくなる。他の誰より、もしかすると本人よりも浮かれてしまう)
だけどかごめは、まんざらでもなかったはずのその彼の誘いをすっぽかしてしまったのだ。しかもとわ子には「すごく楽しかった!」と報告していたもんだから、その彼に偶然会ったとわ子は「楽しかったって喜んでました。ありがとうございます」と無邪気に言ってしまった。相手の男性は、とても悲しそうな、申し訳無さそうな、不思議そうな、どれともとれるような表情で「実は来てくれなかったんです」と話す。とわ子は驚いてかごめの元へ向かったのだった。
とわ子はかごめに「どうして?」と訪ねたのだが、かごめは「お腹が痛かった」という。嘘だとすぐにわかる。「いい人で、かごめもいい人だと言ってたのに、どうして?」「逃げてるだけだよ」「癖になってるんだよ」とわ子はそんな風に言った。かごめの幸せを願っている親友としての発言だとわたしは受け取った。
だけどかごめからは「なぜあなたは失った後もまた誰かと一緒にいようと思えるのか」(とわ子はバツ三である)という疑問が上がった。とわ子は責められていると思ったが、かごめは責めているわけではないと言った。そんな風に、どこか噛み合わないお互いの感情を静かにぶつけ合いながらすれ違い合った。とわ子は「悪かったよ、おせっかいだった。ごめん」と謝った。
「普通に生きられない」苦しさと「普通に生きられてしまう」悲しさ
その後しばらくの間、かごめと親族のトラブルにより会えない時期が続いた。(というかそのトラブルを皮切りに、かごめがとわ子を避けた)
色々と一悶着が終わった後、とわ子の家で一緒に料理をつくりながら、かごめは「漫画を書くことを再開する」という決意をとわ子に報告した。(子どもの頃ふたりは共同作品をつくるほど漫画を書くのが好きだった)
出来上がったネームを見てとわ子は「言いたくないけど、天才!」と感激し、以前のように手伝おうとしたのだが、かごめは「今回は、わたしひとりでやる」と言う。どうして?と迫るとわ子にかごめは「じゃんけんで一番弱いのは誰か知ってる?」と問いかける。「どれも一緒でしょ?」というとわ子にかごめは言う。「じゃんけんで一番弱いのは、ルールを知らない人だよ」
社会のルールに適合できない自分は、ルールを知り、使いこなす人たちが山に見える。山に囲まれて苦しい。みんなができることがわたしにはできない。そんなことを話すのだ。
とわ子は「わたしだってできないよ。辛いもん」と言うが、かごめは「とわ子はできてる。あなたのような人がいることで勇気をもらえる人がいる。それってすごいことだよ」と言う。とわ子は納得がいかない様子で聞いている。かごめは続ける。「だけどわたしには何もない。何もないから、うまくいこうがいくまいが、やりたいことをやる。ひとりでやる」と言う。
とわ子は寂しそうに(色々なことを飲み込んだと思う)「わたしもあんたを囲んでる山なの?」と尋ねる。かごめは小さく笑った。
このシーン、すごく胸が苦しくなった。すごくすごく苦しかった。とわ子も社会で生きていくことに今、現在苦しんでいる。だけど、社会に適合できる。できてしまうのだ。
普通になれない、適合できない、生きづらい。その孤独感やできないという感覚は苦しい。とても苦しい。だけど反対に「普通に生きられてしまった」という苦しみも、あると思った。
たとえばこんな風に、これだけ距離の近い友人との間にも壁をつくられてしまうことや、超えることを拒まれること。自分の居心地とは無関係に、社会に必要とされる囲いから抜け出せなくなってしまうこと。普通に生きられるということが本人にとって「我慢ができてしまった」だけであることや、本当は「普通になれない」側の自分を認められる強さが羨ましいこと。ほかにも、色々。きっと色々ある。
「自分自身」を認められた人の強さ
本当に「普通」で、「普通であること」を謳歌している人なんているのだろうか。「普通でよかった」「楽だなぁ」と、ずっと思って生きていられる人なんているだろうか。
少なくともわたしは、昔に比べてかなり「普通」を身に着けることができるようになった人間のひとりだと自負しているが、それが幸せと結びついているかというと微妙に違う。
色んな生きづらさを感じてきた中で、なにをどう諦めれば生きやすくなるのか、どの場面でどんな風に笑えば場に溶け込めるのか、どの言葉をどのように受け流せば争わずに済むのか、そういうことを学びながら大人になってきた。ただそれだけなのだ。幸せではなく嫌なこと回避のためのスキルを身につけただけ。だけど手に入れたぶん失ったものもある。少なくとも、多くの「本当の気持ち」を隠したり置き去りにしてきた。そうする癖もついてしまった。
「普通」だとか「器用」だとか「無難」だとかは、ある意味スキルで、弱さだとわたしは思う。バーにある丸氷みたいに、四角いものを少しずつ削りながら、心の角を削りながら、尖っていたり繊細すぎる部分を「邪魔なもの」だと見捨てながら、グラスにうまく入れるように、まるくしていく。
氷を削らないと決めるのは、もちろん苦しい。孤独だ。だけど角を削らないことでしか守れないものも、ある。
かごめは結局、1日だけ手伝うというとわ子のお願いを受け入れ、ふたりで漫画を1日だけ一緒につくることにしたのだが、書きながらポツリポツリと今回のドタキャンについて話し始めた。
自分と向き合い続けた人の強さって、こういうところだ。そこにいる自分を認める強さ。理解されなくても、理解されようとしないまま存在できる強さ。丸裸の「自分自身」を手に入れられること。
このシーンに、いろんな感情がとめどなく溢れてきた。切実さが切なく、見えない壁が悲しく、だけどそれでも違いを伝え合いながら一緒にいられる羨ましさ。色んな感情や感覚がわたしの心に走ったのだけど、一番ズシッときたのは「ふたりの友情の分厚さ」への感動。
だけど、伝わらなくても、理解されなくてもいい。考えて、感じた自分自身の感情を伝えよう。そう思えるのは、とわ子に対する信頼だとか、諦めたくなさだと思った。
そして、その言葉に対するとわ子の回答は一言。
もうなにも言わない。わたしはあなたのありのままを、そのまま受け止めるよ、という姿勢。涙が出た。なんだこの友情。なんて美しいんだろう。
「多様性を受け入れること」がなぜ難しいのか
わたし自身、常識を押し付けられて嫌な思いをしたことがある。だけど逆に、良かれと思って言ったことを、後になって「押し付けてしまった」と後悔したことも、ある。
「多様性を受け入れよう」と声高らかに言うのは簡単だし美しい。だけどいくら気を付けても、どうしても自分が経験していない人の気持を完璧に想像することなんて不可能だ。わかろうとすることは時に傲慢なのだと、このドラマを見て思った。
大豆田とわ子のように「そう」と言える気持ちを大事にしたい。否定も肯定もせず、あなたはそうなんだね、と受け止めること。きっとそれが本当の意味で他者を受け入れるということなのだ。わたしも「そう」という姿勢から、はじめてみることにする。
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