パパの育児と理想の家族
産後4ヶ月あたりで若干、鬱っぽくなった。
一日中抱っこしてないと泣き続ける息子に悲しくなり、一日に数回、コントロール不可能な涙が出るようになったのだ。
一度、泣いているところを夫に目撃され、数時間休憩をもらったのだが、その数時間が逆にわたしを落ち込ませた。が、その数時間でみるみる落ち込みはピークを超え、超えた途端にだんだん腹が立ってきた。
親族が近くにおらず、少しずつではあるものの産後2ヶ月で仕事も復帰して、わたしはとてもがんばっているじゃないか。
なのになんで、どうして自分のことを嫌いにならなきゃいけないんだ。
そう思ったときの矛先はだいたい夫である。夫はわたしが出産を終えてからというもの仕事がとても忙しく、その忙しさは家族のためでもあったので、よい妻になるぞ、とがんばっていたのだけれど、わたしの器では4ヶ月が限界だったらしい。
気付いたときが伝えどき。すぐさま夫に提案(脅迫?)をもちかけた。
もうそろそろ、月に1日とか、可能であれば毎週土曜日とか、パパがメインで育児する日があるとうれしいんだけど、どうかなぁ?^ ^
なるほど、いやでも、という言葉が出そうなところをすぐにさえぎり、「母乳のときはもちろん呼んでくれていいからさ^ ^」と言い訳に出てきそうな完母問題に譲歩案を提出した。そうしてわたしの仕事が立て込んでいるときは、土曜日だけパパメインで育児をしてもらえる権利をGETした。
(ちなみに夫はメインではないにしろ、普段も入浴やおむつ交換、食事中の抱っこなど、しっかりばっちり育児に参加してくれている)
はじめての育児開放日
はじめての育児開放日はもう、なんか、なんというか、久しぶりに「自分」だった。開放感がすごかった。(といっても整体に行き、仕事をしただけなのだけど)
会えない時間は愛を育む。出産と数ヶ月の育児を通して、わたしのなかで「会えない時間」によって育まれた愛の矛先は仕事だったようで、集中して働く数時間はとても心地がよかった。お久しぶり、アドレナリン。お久しぶり、わたしだけの体。わたしだけの脳みそ。って感じ。
そして自分の時間を過ごしながら、とてもうれしかったのが「息子に会いたい」という感情が湧き上がったこと。
ふだん育児をしながら、愛しいとか大好きとかかわいいとかは思いまくっているものの、会わない時間はトイレ中と寝かしつけ後くらいしかないので「会いたい」と思う隙間がない。だけど、その日は念願の仕事集中日だというのに、働きながら会いたくてたまらなかった。やはり会えない時間が愛を育むのである。
夕方になり、ひと段落ついたので息子への会いたさを消化すべく、仕事部屋から出た。リビングへ行き、いちばんに目に入ったのはげっそりした顔で息子をゆらし続ける夫の姿だった。
なんて顔。こんな不幸そうに抱かれる息子がかわいそうだとすぐさま抱っこ交代を申し出、へろへろとソファにもたれこむ夫をじろり、と見た。
息子はこんなにもかわいいのに、たった1日でなぜそんな疲弊するんだ、わたしは4カ月間ずっとなのに、という気持ちと、わたしの苦労がわかったか、といういじわるな気持ちの両方があった。
それはそうとして、数時間ぶりに見る息子がとにかくとてもかわいい。愛が止まらない。ドーパミンがすごい。溢れ出すぎる愛によりハイテンションで息子に接しながら、はっとした。はっとして、自分にゾッとした。
妊婦時代「これされたら腹立つ」と思っていたこと
妊婦時代、赤ちゃんが生まれた後に夫婦が険悪になる的な漫画をけっこう読んだ。それ系のツイートもやたら目についた。なにかの強迫観念があったのだと思う。
たくさん読むなかで毎回、これ嫌だな、と思うお決まりのパターンがあった。それは、夫側の人物が「いつもニコニコ、育児も家事も大好きな理想のママ」を求める件だ。
漫画やツイートを見る限り、夫側の人物は、子どもが生まれた後も親になる気配はなく「いやいや、ニコニコして欲しいなら育児に参加せぇや」と思うような態度だ。そして育児もせずに「産後、妻が変わった」とかほざくのである。お前も変わらんかい。
その不快感を思い出し、わたしは今「いつもニコニコ理想のパパ」を夫に強要したかもしれないとゾッとした。
わたしが今、久しぶりに息子に会いたいと思えたのは夫のおかげだ。わたしが息子に笑顔を向けられるのは、「大好き」と思えるのは、今日1日のパパ育児しかり、日々夫が育児にしっかり参加してくれているからだ。
こんなにへとへとになりながらも、仕事部屋に来ることもなく、ひたすら耐えていた夫。そんな人に、わたしはなんて視線を向けてしまったのだろう。
漫画やツイートを見ているとき、いつも夫側の人物に対し「あなたが気持ちよく働けるのは妻の努力あってこそなのに」とか「ニコニコできるかどうかはあんた次第でしょ」とか散々心の中でつっこんだのに、いざ自分がそちら側になるとニコニコ育児を求めてしまうのか。
「女だから」そっち側になることはない、となぜだか思っていた気がする。
我慢する側のときだけ、その我慢に気づくような人間であってはいけない。自分の幸せの裏側には誰かの我慢があるかもしれないという考えを忘れてしまっては、わたしだって漫画に出てくるダメ夫と同じ人物になってしまうのだ。
理想のママとパパ
自分が夫にニコニコパパを求めてしまったことをとても反省し、夜に「今日はありがとう」と伝えた。すると夫は申し訳なさそうに笑い「こんなに大変なことをいつもありがとうね」と言ってくれた。いつもニコニコじゃなくても、こんな風に伝え合って、ちゃんとまた笑い合えれば、それはもうきっと理想のパパとママだよな、と思った。
わたしはいつもニコニコ、育児も家事も大好きな理想のママ、にはなれない。育児はどちらかといえば好きだけど、毎日朝から晩までひとりでやるのはつらい。家事は苦手だし仕事もしたい。
だからいつもニコニコ、育児も仕事も大好きな理想のパパを求めたくない。もちろん息子に対しても、俗にいう「育てやすい子」を求めたくない。いや、絶対に求めないぞ。
疲れるときは疲れる。悲しいときは悲しむ。ときにぶつかりながらも協力し合って、なるべく早く笑顔を取り戻す。そして未完成な自分たちを、お互いだけは認め合えるような家族になれたら。母になり4ヶ月経った今、わたしはそんなふうに思っている。