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生きるうえで贅沢は必要かー『暇と退屈の倫理学』を読んでー

國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』という本を読んだ。もともと著者に対して興味があったからで、「暇と退屈」について考えたかったというわけではない。ただ、この本を読み進めるうちに、「暇と退屈」は自分の抱える問題にとって重要な概念なのではないかと思うに至った。

私は鬱病である。自分の人生が虚無に感じられ、自分なんて生きていてもしょうがないと感じ、そのことに絶望もしていた。自分が生きている理由を探しても、そんなものはどこにも見当たらない。そのため、やりたいことを明確に持っている人、何かに熱中している人をうらやましく思っていた。

今まで、上記のようなことを自分が感じているのは、自己肯定感が低いからだと考えていたのだが、本書を読み進めるうちに違う可能性が見えてきたのである。

つまり、私が人生に虚無を感じているのも、生きている理由が見つからないのも、もしかすると「生きることに退屈しているから」かもしれないという可能性だ。

退屈が人生に及ぼす深刻な影響

本書はさまざまな角度から「暇と退屈」について考えを巡らせている。私は、本書を読むことで、自分のなかにある「退屈」という概念が持つ重みが変わったように思う。どう変わったのか。一言で言えば、私は今まで「退屈」を軽く見ていた。

もう少し言い換えると、「退屈の持つ深刻な影響を甘く見ていた」とも言い換えることができる。つまり、自分が感じている人生の諸問題に比べれば、退屈など取るに足らないものだと考えていた。

しかし、どうやらそうではない。本書は退屈の引き起こす苦しさについても、多く言及している。私が驚いたのは、「退屈から逃れるために、人は命を危険にさらすことさえある」ということだ。ときには戦争を始める理由にさえなりうるかもしれない、とも。

私はたかが退屈なくらいで、そこまで深刻な事態を引き起こすなんて考えてもみなかった。それならば、自分の人生が退屈であるから、「生きている意味がわからない」と絶望することもあるかもしれない。私の人生にはやるべきことがない。熱中できることがない。だから虚無を感じる。私は人生に退屈しているかもしれない。

そう考えると、「自分なんて生きていてもしょうがない」というのは、自己肯定感が低すぎるがために感じているのではなく、「やることがない(退屈している)」から感じているのかもしれない。

こうなると、今まで自己肯定感を上げようと試行錯誤してきたアプローチ方法では解決しない可能性が出てくる。何故ならば、私に足りないのは自己肯定感ではなく、退屈しないための何かかもしれないのだから。

私が人生から排除してきたもの

さて、ここで著者は退屈の処方箋として何と言っているのかを確認しておこう。

「人はパンのみにて生きるにあらずと言う。いや、パンも味わおうではないか。そして同時に、パンだけでなく、バラももとめよう。人の生活はバラで飾られていなければならない」『暇と退屈の倫理学』(新潮文庫 p402)

ここで「バラ」と表現されているのは、「気晴らしという楽しみ」のことであるし、もっと端的に「贅沢しよう」ということでもある。人の生活は「気晴らしという楽しみ」で飾られなければならない。そのために、「贅沢しよう」というのが本書の主張である。

私はここで再び衝撃を受けることになる。それは「贅沢していいのか!?」ということである。人によっては、「何を大袈裟な。贅沢くらいするだろう」と思うかもしれない。だが、私は長らく贅沢を自分に禁じてきたという事情がある。

何故か。それは端的に金がなかったからだ。私は働ける年齢に達してからの人生のほとんどを非正規雇用で過ごしてきた。そうせざるをえなかった事情はここでは割愛する。ここではとにかく金がなく、贅沢は無駄だと切り捨ててきた点だけ伝わればよい。

さて、私が自分の人生に虚無感を抱いている理由を、本書から得た視点で見てみると次のようになる。私が人生に虚無感を抱いているのは、私自身が贅沢を無駄だと考え、気晴らしという楽しみを排除してきたからだ。

贅沢は生存と切り離されてよいのか

もちろん、まったく贅沢をしなかったわけではない。また、一切の気晴らしを排除したわけでもない。ただ、たまに行うそういった行為に罪悪感が伴っていた点は見逃してはならない。「自分はこんなことにお金を使っていいのだろうか……」あるいは、「もっと自分にとって必要なことにお金と時間を使うべきでは……」という罪悪感は、気晴らしの楽しみを減らしてしまう。

この「贅沢や気晴らしへの軽視」が自分の人生から色彩を奪ってきたのではないか。これが本書を読んで、私が強く感じたことだ。そもそも、ここでの「自分にとって必要なこと」とは何なのか。「自分の人生を楽しむための金や時間」は必要なことではないのか?

「贅沢をしない」ということは、言い換えれば「自分のために(過剰に)金を使わない」ということである。では、一体何のために金を使うのか。それは最低限の生活を維持するためである。だが、思い出してほしい。憲法第25条には何と書かれていたのかを。

日本国憲法(昭和二十一年憲法)第25条
第1項 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

ここで我々が注目すべきは「文化的な」という文言である。ただ単に「死なないため」に必要な最低限という意味であれば、「健康的な最低限度の生活」で事足りる。しかし、憲法にはしっかりと「健康で文化的な最低限度の生活」と書かれている。

本書のなかでは、「文化とは、人が人生を楽しむために創造されてきたもの」という形で言及されている。つまり、文化とは人が自らの人生を彩るためにつくりだしたもので、そういったものを享受するのが贅沢であると言えるだろう。「人はパンのみにて生きるにあらず」なのだ。

つまり、人が生きていくためには、「死なないだけの衣食住が足りている状態」だけでは足りないのだ。そう、人の生活はバラで飾られていなければならない。

おわりに

私は今も鬱病である。薬がないと生き続けることが難しい。ただ、この本を読んで初めて、自分に贅沢を許せるようになった。自分が人生を楽しむことについて、ちゃんと考えるようになった。

大袈裟に聞こえるかもしれないが、それは「自分を大切にできるようになった」とも言えるだろう。無駄を切り捨て続けるだけの人生は、自分に対する文化的ネグレクトと言えるかもしれない。

私は本書を読んだことが人生の転機になるものだと感じている。もちろん、これからの人生がどうなるかはわからない。本書を読んだあとでも、私は相変わらず薬を飲むことでようやく眠れる毎日を送っている。

ただ、少なくとも今はこう言うことができる。

私は人生を楽しんでよいのだ。

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