お客さんとしての映画祭-第16回 関西クィア映画祭2023-
先週、「第16回 関西クィア映画祭2023」に行ってきた。おそらく初めて、お客さんとしての参加。
それまでは、実行委員とか当日の手伝いで行っていたので、プログラムを見に行くだけというのは、新鮮だった。
わたしが行ったのは、2プログラムで「わたしの愛し方」と「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」の2本が見られるプログラム。あとは「ガール・ピクチャー」とトークがあるプログラムだ。
「わたしの愛し方」は、Aセクシャルの登場人物が同居人に勝手に出会い系サイトへの登録をされてしまう物語。
「まだ恋愛を知らないだけ」とか「恋愛しないのはもったいない」とか、そういうよく聞くめんどくさいことを主人公は同居人に言われてしまったりする。
わたしはAセクシャルではないけど、本当にうざいなって思ってしまった。
同じプログラムで見た、もうひとつの作品は「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」。
なんだか恋愛がよくわからない主人公が、大学に入学して「ぬいぐるみサークル」に入る。そこで出会う人たちとコミュニケーションしたり、関係が変わったりして、最終的にどんな言葉を話すのか。
Aセクシャルの物語とは言っていないけれど、恋愛が分からない人は共感できるところが多いと思う。
最後に見たのは「ガール・ピクチャー」。3人の登場人物それぞれがぶつかったり、笑いあったり、試行錯誤して、「自分にとっての好きってなにか」「セックスってなんなのか」みたいなことを見つけていく物語。
ちょっとシュールな笑いがあったり、個人的には登場人物のひとりが眉毛なしスタイルで好きだった。
その後のトークも楽しくて、「クィアってなんなのか」「クィアな映画ってなんなのか」ということを考えた。
京都会場は今週末なので、今度はもっといろんなプログラムをみたいと思ってる。
関西クィア映画祭に行くと、1年ぶりに会う人が多い。去年もスタッフをしていた人がいるから。わたしが最初に関わったときはなかったけど、コミュニティ化している。
大阪会場に行ったときも、たくさんの人と「久しぶり」と挨拶した。「会えて良かった」って言われるのは嬉しい。
ただやっぱりお客さんとしてひとりで行ったので、感想を言い合える人がいなかったことは寂しいなと思った。
関西クィア映画祭でしか見られない作品もあるし、トークとかはここでしか絶対にきけないし、終わったらすぐに喋りたい!となったから京都会場ではパートナーとたくさん話そうと思う。
わたしにとっては慣れ親しんだ雰囲気で、懐かしい人たちで、「やっぱり手伝いたかったかなー」とも思った。
でも、楽しかったし、今年も開催してくれて「ありがとう」という気持ちが強くなった。
さて、ここからは別日に書いた文章になる。京都会場1日目が終わった。今日から2日目である。
昨日は「レスボス-レズビアンの居場所-」「韓国短編集」をみた。両方とも、パートナーとみれたのが嬉しい。
どちらのプログラムも、思っていたより見終わると良かったなと思えて、みて良かった。
どんな感想を持ったかはX(Twitter)を参照して欲しい。簡単な感想を書いた。
わたしはあまり映画をみないので、一日にこんないろんな作品をみることは珍しい。
会場に着いたら、見てないけれど、「老ナルキソス」の東海林監督がトークしているらしかった。
それが終わると散り散りに人が出てきたりして、いろんな人に挨拶した。ずっと映画祭にはスタッフ側で関わってきたから、お客さんとして来るのは初めてだと思う。
だから、みんなに「お疲れ」と言われる。わたしもそう返す。
お客さんとして来ている人にも挨拶する。話したことがなくても、わたしの顔に見覚えのある人は、ここでは多いと思う。目立ちたがり屋だから。
実際に今年、声をかけてくれて話すようになった人もいる。面白いことだ。
来年もあれば、少しは関わりたいと思うけど、元気があるかなと不安だ。
関西クィア映画祭は、唯一、属しているなと思う場で、それこそクィアと看板を掲げているから、あらゆるセクシャリティの人がいる。そして、闘うことをやめないところだと思っている。
セクマイの映画において多い「ゲイ映画」を意図的に減らして、「セクマイの中で権力のある人たちに媚びる」感じじゃないようにしてる。セクマイにはゲイだけがいるわけではない。しかし、公募した作品をそのまま上映すると大半はゲイ映画になるという現実があるのだ。
男社会である現代において、ゲイ映画の方がお金がかけられやすく、クオリティの高い作品が作られやすい。だから、上映の機会も増えるし、ゲイ映画を作るほうがいい。
なのに、そういうゲイ映画を意図的に外して、プログラムを組んでいる。
韓国短編集なんかは「セクマイ・女性もの」とパンフレットに書かれているように、女性ものの短編集だ。明日は特別上映で「鏡をのぞけば~押された背中~」が上映される。この作品は日本の作品で、トランスジェンダーについての作品だとパンフレットにはある。
トランス女性が作って、監督本人も出演する今作は、日本だしトランス女性だしホームページの紹介とかも、めっちゃ気になる。
と、ここに書いたような作品を意図してプログラムとして組んでいる。それは、ゲイばかりの作品上映にならないためだ。
それは、どういうことなのかと考えると、「セクマイという世界にある差別と闘う」ということなのだろう。
セクマイの世界でさえ、不可視化され、埋もれてきた人々がいて、そんな人たちを積極的に見えるようにする。そうすることで映画祭の財政的な部分が潤うことはないだろうが、それでもクィアな映画祭ではこういう選択肢を選んでいる。
最近はトランス女性へのヘイトがすごかったりして、意味不明な言葉が毎日、飛び交っている。そういうことも意識されているし、ずっと前から性別指定のないトイレの設置もある。
あらゆる作品を上映する映画祭として存在することで、クィアな場を獲得し続けていると、わたしは感じる。これは闘いではないだろうか。わたしが関西クィア映画祭が好きなところは、闘いであるからだと思う。
セクマイの中にある差別に抗うこと、わたしたちの中にある差別と闘うこと。それが、今のわたしにとってのクィアだと思う。