嫉妬をしないわたしの「嫉妬」
「嫉妬ってなんですか?」
わたしはそう人々に聞いてきた。しかし、よく考えれば自分にとって何なのかを考えていなかったように思う。
そのため、今回は「わたしにとっての嫉妬」について考えていきたい。
嫉妬は2種類ある
まず共有したいのは嫉妬の種類についてだ。インタビューをしたり、考えたりしている中で、わたしは2種類の嫉妬があることに気づいた。
ひとつは恋愛においての嫉妬。「好きな人が浮気をした」とか、浮気までいかなくても「異性と出掛けた」「異性と楽しげに話している」とかっていう状況で発生する嫉妬。
あとは、高い能力や自分より秀でている人への嫉妬。これは仕事に例えると分かりやすいと思うのだが、「自分より早く出世した同期」とか「自分より器用に仕事をこなす人」とかに対する嫉妬である。
恋愛においての嫉妬は「独占」「寂しさ」「苦しみ」などの感情も同時にあるように思うが、後者はそうではないように見える。
極端なところまでいけば、辛くなることもあるのかもしれないが、だいたいは「羨ましい」という気持ちが、その人の中の多くを占めているように思う。
この羨ましさは、わたしが聞いた限りではあまり感情的ではない。ネガティブな感情が無いどころか、「自分も頑張ろう」とポジティブに思うことさえある。恋愛の嫉妬とは、なんだか全く違うものに見えるのだ。
この2種類の嫉妬は、同じ「嫉妬」という言葉を使っているのに中身は全く違う。もはや、別物と言ってもいいくらいのものなのだ。
恋愛ではない嫉妬
恋愛とは違う嫉妬について、先に考えたい。なぜなら、わたしが理解できるのはこちらの嫉妬だけだからだ。
わたしは絵を描く。しかし、絵の上手い人はたくさんいて、自分には描けない絵もたくさんある。
目の当たりにすると、迫力があり、説得力に圧倒されて「なんてすごいんだ!」と感銘を受ける作品だって、本当にたくさんあるのだ。
すごい作品に出会う度、わたしは嫉妬していると思う。正確には「羨ましい」という気持ちに近い。自分もこんな作品を作りたい、こういった説得力が欲しい、もっとすごい作品を生み出したい。そういった思いを持つのだ。
強く気持ちが揺さぶられたり、嫉妬する度にめっちゃ絵を描き始めたり、感情的になって「どうして自分にはできないんだ!」と思ったりはしないが、これも嫉妬だろう。
個人的に感情の波が荒れることはないのだが、「悔しい」という気持ちは荒れる人もいそうだ。悔しさも嫉妬からくる感情だと思う。
上手い絵を見て羨ましくもあるが、自分にはできないことをまざまざと見せつけられている。そんなふうに捉える人もいるだろう。そして、そうなると悔しくなりそうだ。
わたしが聞いてきた中では、強い悔しさを訴えた人はいなかったと思うが、恋愛的な嫉妬以外だと、悔しさが一番しんどそうだと感じる。この点は、もっと人からインタビューして知っていきたいことだ。
恋愛としての嫉妬
恋愛的な嫉妬は、わたしが聞いてきた最も多い嫉妬である。もはや、スタンダードな嫉妬と言ってもいいかもしれない。
恋愛における嫉妬の特徴は、個人差が大きいが、感情的になりやすく、ネガティブな気持ちが強いところだ。もちろん、ほとんど嫉妬しない人もいるし、ネガティブにならない人もいる。
しかし、わたしがインタビューして話を聞くと「付き合っている人が異性とふたりだけでご飯に行った」「異性と楽しげに話していた」という日常的にありそうなことがキッカケになり、ネガティブな感情で苦しくなるという人が多かった。
ネガティブな感情は、不安であったり、怒り、焦燥感など多岐にわたる。そして、共通しているのは、「とてもしんどい」ということだ。
恐らく、わたしが考える以上に辛いものなのだ。
わたしの極端な嫉妬
わたしにとっての嫉妬は、恋愛における嫉妬とは全く違う「羨ましさ」があるだけで、感情的にはならないものだ。
こう書くとわたしの嫉妬は極端なものだと思う。ほとんど嫉妬しないということだから。
羨ましさはある。あるけれど、そこまで強くはない。その上、恋愛における嫉妬はしない。なぜ、こうなるのかはよく分からないが、わたしに嫉妬というものはほとんどないのだ。
「できるなら嫉妬を無くしたい」と言う人は多い。だから、そういう人にとってはわたしは羨ましい存在なのだ。わたしから見ると、嫉妬は知りたい対象なのだが。
嫉妬を感じない人というのは珍しい。ほとんどの人が「嫉妬はある」と答える。わたしにとってはそういう人たちの方が極端に思えるが、わたしこそが極端なのかもしれない。
嫉妬を感じられないのは
わたしが恋愛的な嫉妬をしないのは、ポリアモリー的な思考だからかもしれない。ポリアモリーとは、「複数の人と同意の上で親密な仲になること」を指して使う言葉だ。
ざっくりと書けば、わたしは複数人を同時に好きになることがあるのだ。わたしにとって「好き」とは、幸せであってほしい人をおもうこと。好きな人が幸せならば、一緒にいる相手が誰だろうがいい。少しくらい接点があると嬉しいけど、とは思うが。
でも、それは単純に会いたい気持ちがあるからで、好きな人のパートナーが憎いとか、妬ましいとは思ったことがない。むしろ、仲良くしたいくらいである。
こういった感じで、わたしには独特の思考や感覚がある。
これは、子どものときからそうで、一対一で付き合うという想像ができなかった。好きな人たちと生きていくことの方がわたしには親近感があったのだ。
それは、あらゆる要因によってそうなったのだと思うが、大きな理由としては「常識から外れて育った」ということかもしれない。
学校でも、家庭でも、落ちついて生活できなかったわたしは、その頃に獲得するはずだったものを知らずに育った。それは、恐らく人との関係性や愛着といった基礎的なものだろう。
そういった基礎的な部分が、そもそも多くの人とは異なったいるから、結果として変わった恋愛をするようになったのではないか。このようにわたしは仮説を立てている。
わたしの中には、嫉妬を感じるために必要なものが無いのかもしれない。
嫉妬はコントロールできない
ここまでいろいろ考えてきたが、いろんな嫉妬に共通するのは「コントロールできない」ということではないだろうか。
嫉妬を無くしたくてもできなかったり、知りたくても分からなかったり。嫉妬を掴もうとするのは、とても困難なことだ。
嫉妬を持つ人たちも、持たない人たちもそうなろうと思ってなっているわけではない。それぞれ、生育環境や思い込みなどで、結果的に嫉妬したり、しなかったりしているのだと思う。
どういう背景があったら嫉妬するのか。そもそも、嫉妬についてどういう認識があるのか。いろいろ話を聞けば分かってくるかもしれない。
やはり、まだわたしは「あなたにとって嫉妬ってなんですか?」と聞いて回りたい。コントロールできないほど、無自覚なところにあるもののかたちを知りたい。
そのために、嫉妬に関するインタビューを来月から始める。現在は面識のある人に限定しているが、メンバーシップ限定で行ったりもするつもりだ。良ければそちらもチェックしてみてほしい。
今回はここまで。
購入いただいて、最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
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