ジャズを受け入れるまでの道のり!
私がジャズと出合ったのは半世紀以上も前の話だ。
まだ高校生だった。
学校では吹奏楽部に入り楽器の練習もしていたので、まったくジャズを聴いたことがないという訳ではなかった。
ジャズと出合った日!
何度か好奇心でジャズを聴いたがその良さを理解できなかった。
現在のように、いつでもどこでもどんなジャンルの音楽でも聴けるという環境にはなかった。
テレビで流行りの歌謡曲や演歌を聴くか、ラジオの深夜番組で流れている音楽を聴くくらいだった。
住み込みのアルバイト
田舎暮らしの私には、ラジオの深夜番組こそが世界中の音楽を聴く唯一の方法だった。
トランジスタラジオから流れる洋楽は新鮮で、ミッシェル・ポルナレフのシェリーに口づけや愛の休日、ドーンのノックは3回などが何も知らなかった私の心を鷲掴みにした。
アルバイトで貯めたお金で買った安価なレコードプレイヤーも持ってはいたが、レコードを手に入れるのも簡単ではなかった。
当時持っていたレコードと言えばニニ・ロッソのロシア民謡やクラシックの名曲などだ。
どうしても洋楽のレコードを買いたいと思い冬休みにアルバイトをすることにした。
そして友人の紹介で兵庫県北部のスキー場で住み込みのアルバイトをさせて頂けることになった。
汽車を乗り継ぎ、現在は豊岡市になっている江原駅で下車した。
江原駅からはバスに乗り換えて神鍋高原のスキー場に向かった。
何時間もかけやっとたどり着いたレンタルスキーと食堂が目的のバイト先だ。
朝早くに起き、初めて履いたスキーで新雪を踏み固めるのが最初の仕事だ。
そしてゴミ捨ての後その家の人たちと一緒に朝食を頂き、次は広い食堂のお手伝いだ。
午後は翌日のスキーレンタルの準備をした。
学校行事で来るお客さんの名簿を見ながらスキー靴とビンディングというスキー金具を調整しセットにしておく作業だ。
何百人分のスキーをセットするには結構な時間を要した。
夕食もその家の家族と一緒にお客さんがいなくなった食堂で頂いた。
住み込みでバイトをしていたのは私とその家の親戚の女性の二人だった。
夕食は40代のご主人夫妻とその母、そしてバイトの二人だ。
行った日からいいことも悪いことも家族同然の扱いを受けた。
ジャズと出合った日
そのご主人がジャズを好んで聴く人だったのだ。
もちろん食堂のBGMもジャズを流していた。
夕食時もジャズが流れご主人の解説を聞いた。
その家族と20代であろう口数の少ないバイトの女性、そして高校生の私はホルモン鍋を囲みながらご主人のジャズ談義を聴いた。
スキー場にジャズのBGMは何となくマッチしていた。
しかしよく理解できない音楽を一日中聞かされる私には心地よいものではなかった。
食堂に流されていたのは有線放送のジャズチャンネルだった。
リクエストをしない限りはランダムに流れてくるが、ジャズ好きなご主人は全ての曲を知っているかの如くであった。
「このモーニンって曲はなアートブレーキーが君が生まれた頃に発売したアルバムに入っている曲なんだ」
「そうなんですか」と返事はしたが、ちんぷんかんぷん意味不明だった。
アートブレーキ―が一体何者なのかも知らなかった。
しかし何度か聴いている内に段々と分かってくるようになった。
「あっモーニンだ」といった風にだ。
そして聞き覚えのある曲が増えて行った。
初めて聞いたフリージャズ
そうは言ってもそのくらいでジャズにハマるほどセンスが磨かれていた訳ではない。
そのバイトではただジャズを少しだけ知ったに過ぎなかった。
バイトで得たお金でジャズのレコードを買ったわけでもない。
買ったのはニールセダカのスーパーバードや恋のかけひき、アナザータイムなどだと記憶している。
やはり心を動かされるのはラジオから流れる洋楽だったが、たまにラジオから流れるベニーグッドマンやグレンミラーにも耳を傾けた。
それは吹奏楽部だったからだろう。
そのようなフルバンドの音楽にはアメリカの匂いがした。
アメリカの文化を想像できるものでもあった。
家から一番近い中核都市へレコードを買いに行った時だ。
駅前のアーケード街をレコード店がある方へ歩いていると、ジャズ喫茶という看板が目に入った。
その時私の好奇心が騒いだ。
喫茶店なのだから入るのに躊躇う必要もないと思ったが、何か怪しい雰囲気を感じた。
入口から階段で地下へ降りていくような店だった。
階段を降りた入口に高校生禁止とも未成年禁止とも書いてなかったので思い切って入ることにした。
数人のお客さんが談笑していたが、音楽は流れていなかった。
オーナーらしき人が何にしましょうと水を持ってきたので背伸びをして「コーヒーをお願いします」と言ってしまった。
コーヒーの味も分からない田舎者だったが見栄を張ってしまったのだ。
コーヒーを持ってきた長い髪のオーナーらしき男性が他のお客さんに次は何にしましょうと聞いた。
髭面の男性が「じゃあコルトレーンお願いします」と言った。
何年も後になってその時のアルバムがアセンションだったのだろうと思ったが、まさか世の中にこのような音楽が受け入れられているのだとはどうしても思えなかった。
タバコの煙が充満する、決して広いとは言えない店内に大音量で流れるフリージャズと言われる音楽だった。
私は気が狂いそうになった。
これもジャズが大人の音楽だと思うようになった切っ掛けだろう。
その後大人になってから山下洋輔トリオを野外ライブで聴くまで、フリージャズというジャンルがトラウマになったほどだ。
それから半世紀経過し現在の私のジャズはプレイする音楽になった。
ジャズを聴くこともするがそれはプレーするために聴いている。
車の中でドライブ中に聴くのは昔の思い出の曲が多く、家でリラックスするために聴くのは主にクラシックだ。
だからジャズという音楽は私にとって少し歪と言えるものだ。
例えるならゲームと同じだ。
この曲はどのように攻略してやろうかといった感じだ。
この感覚を文章で表現するのは難しいが、毎日聴いているジャズはプレイなのでゲームと同じように楽しんでいるという訳だ。