「ぎょらん」が描く"主観"のループ
「星を掬う」を読んで以来、ぷかぷかと町田そのこさんの小説にハマっている。先日読み終えた500ページ超えの作品「ぎょらん」には、"主観"の危うさが描かれていた。
7つの短編を貫くのは、死者が遺すとされる「ぎょらん」。いくら(魚卵)のような見た目の珠は、死者からのメッセージだといわれる。親友が遺したぎょらんを口にしたばかりに、生き地獄を味わう男性。
編が進むごとに、「死者が遺した」ぎょらんが姿を変える。
約20年ぶりの同居
やりがいがあり、大好きだった教職を退いたのは、「限界」を感じたから。
限界に直面したのは、仕事と育児の両立だけではない。
母との同居。
彼女と一緒に生活することを、今度こそ諦めた。
復帰1年目はもちろん、学級担任だった。
夫も危機管理の部署になり、昼夜を問わない勤務体制。
保育園に入ったばかりの長男は、毎日のように熱を出す。電動自転車に乗せた長男の体が熱く、受付時間ギリギリの小児科にかけこんだことも数知れず。
当然ながら、自分の体調に構う余裕はない。
「なんとかなる!いや、なんとかする!」
気合いだけで1カ月ほど突っ走った結果、
声が出せなくなった。
教師にとって声が出ないのは致命傷。重度の声帯炎と診断された私は、医師から話をすることを禁じられる。
教師に「話すな」って、そりゃあんさん、無理な話よ。
涼やかな目をした好青年医師を見つめながら、心でつぶやいた。
「これ以上、回らない」
やむを得ず母に来てもらい、10代で上京して以来の同居生活が始まった。
浮かび上がってくる、幼きころの記憶。
期待し、ホッとして抱きついても、最後には必ず突き落とされる。抱きしめてくれた力のはるか上をいく強さで。
幼いころから刻まれ続けた記憶は、そう簡単に薄まらない。
案の定、母娘の関係はだんだん、だんだんほつれていく。
母は昔から、私のすることが気に入らないようだ。
夫はだれもが「優しい」と言い、私が産まれて初めて羽を伸ばせた(伸ばしすぎやけど。笑)相手。ただ、母からすると、パートナーの前でのびのびと羽を伸ばす娘が気に食わなかったようだ。
「〇〇くん(夫)は、いつかあんたにあいそをつかす」
夫も、母から何度も「あの子にイライラしているなら、我慢せずに怒らんとあかん」みたいなことを言われたそう。
夫は「全く怒っていないし、お義母さんに何度も"我慢なんてしていない"と伝えるも、聞く耳を持ってくれないんだよね」とため息をつく。
そうなのだ。
昔っから、母の中で「自分が感じたこと」は全て。
当の本人である夫がいくら「我慢なんてしていない。楽しくやっている」と訴えても、母の「旦那が耐えて、いつか爆発する。娘は絶対に捨てられる」妄想は消えない。
「あー・・・そうなるとどうしようもないからね。はいはいって流していいよ。ごめんね」
夫をなだめながら、私の心には「侵食」のワードが浮かんだ。母の「妄想」が少しずつ、穏やかな日常に切り込んでくる。
「私が思ったら全て!」な母とは、これ以上暮らせない。
彼女を激昂させないよう、「担任から外してもらえることになったからもう大丈夫、ありがとう」と同居を終わらせた。
母への感謝と、反論。
一方で、母には感謝している。仕事が続かず、借金を重ねて遊び歩く父とかたくなに離婚しなかったのは、母自身が親の離婚でつらい思いをしたからだそう。
彼女もまた、「縛り」に苦しんできた当事者なのだ。
仕事で帰りが遅くなった母を、父は容赦なく締め出した。
「飯の支度ができていない!」
偉そうに怒鳴る父を冷めた目で見つつ、台所の勝手口を開けて彼女を招き入れるのは私の役。
当時の母と同年代になった今、四面楚歌だっただろうな、と思う。
少しぐらい、歪みが出ても仕方ない。母のつらさをいったん受け止め、流そう。そう思ってきたし、これからもその姿勢は変わらないだろう。
ただ、一度だけ、本気で彼女を叱ったことがある。
2度目の同居を解消した後、精神的に不安定になった母。そんな母を病院に連れて行ってくれたのは、私より5つ上の義姉だった。
大家族育ちの義姉は面倒見が良く、カラカラと笑う人。
ちょうど兄夫婦が家を建てるタイミングだったこともあり、父母との同居を申し出てくれた。そんな義姉に対しても、母の妄想は止まらない。
「あの人はいつか、〇〇(兄)と子どもたちを捨てて出ていく。見えないところで着々と準備をしているはずや」
この言葉を聞いたとき、
「この人はきっと、目の前の"幸せ"を疑わずにはいられないんや」と思った。
幸せを認められないのは、過酷な人生ゆえのひずみともいえる。ただ、このままでは、いつまでも穏やかな日々を手に入れられないだろう。
造っては壊す、砂山。
「いい加減にしいよ。これから離婚しようって人が、何十年もローン組んで家を建てる?あんなにお母さんのことを思って動いてくれている人、おらんよね?大概にせんと、ほんまに愛想つかされるで」
いつもうんうん、と話を聞いてくれる娘の反撃に、びっくりしたのか。はたまた、生意気に!とお怒りスイッチが入ったのか。
母は、無言で電話を切った。
ちょっと強気に出られるのも、"距離"があるから。幼いころの傷は「はい、治った!」なんて言えるもんではない。
些細なきっかけでうずき出し、静かな痛みに耐える。「解決」なんてないし、しなくていい。
この「痛み」こそが、私の武器だ。
「主観」を超えるのは?
「いじめられている」と感じたら、いじめです。
悪質なものは除き、この「思ったら全て」論には危うさを感じる。
人の「主観」ほど曖昧なものはない。バイヤスかかりまくりの、身勝手論。これを全て!としたならば、言われた相手はどうなるのだろう?
「感じさせたことを、謝りなさい」
なんだこの、無茶苦茶な要求。パワハラにカスハラ、マタハラ・・・
ハラハラハラ。
言いたいことも言えないこんな世の中じゃ、ポイズン。まさに、「毒」ではないか。
「自由」の言葉で自由を根こそぎ奪う、毒。
町田そのこさんの小説は、今んところ「主観」に切り込む作品が多いと見ている。
額縁に入れて掲げた「主観」が、人との出会いを通して少しずつ、緩やかに崩れていく。
「私はかわいそう」「つらい生い立ち」「サイテーな親」
「自由がない」
本当に?
不自由にしているのは、だぁれ?