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"表現"を書いた「三行で撃つ」
近藤康太郎先生の「三行で撃つ」が、めでたく10刷となった。10刷を記念して!3回目の通読。
読んだ気になり、肝心なところを掴めずにいた自分に気付く。
なんて、厳しい本!
本書を読み、このように感じた人は多いのではないだろうか。私もそのひとり。1回目に読んだ感想は「厳しいけれど、スカッとする」だった。
痛いところをつかれて苦しいはずなのに、ちょっとうれしい。相反する感情に、少しばかり戸惑う感じ。
近藤先生自身が実践しているから、厳しさの中に温かさを感じるのだと思った。もちろん間違いではないだろう。
ただ、
3回目を読み終えたときの感情は違った。この本、厳しくなんてない。むしろ、書く上で「あったり前」の大前提を述べている。
わたしたちはつい、「美しい花」「美しい海」と、言ったり、書いたりしてしまいます。日常会話ではそれでいいのかもしれません。しかし、ライター志望者が「美しい海」「美しいメロディー」「美しい人」と書いているようでは、未来はありません。
一輪一輪で異なる、美しい個々の花は、たしかにあります。しかし、花一般の美しさというようなものは、ありません。みな、違う。
だからこそ逆に、「美しい花」と書いてはいけないんです。
自分で考えること。だれかの受け売りではない、先人の言葉をパクるのでもない。自分自身の目で見つめ、五感を使い、頭をひねくり回して考えるのだ、と。
厳しく感じるのは、SEOをはじめとするライティング術とは真逆のことを言っているからかもしれない。
なんか、おもんないなぁ
2023年の9月から、制作会社のライティング受注をストップした。ひたすら大手出版社のSEO記事を書き、他のライターさんの記事をチェックするうちに、気付いたこと。
おもんない。これ、私じゃなくてもいいよなぁ
コンプライアンスはどんどん厳しくなり、「誤解を招く表現」は御法度。この誤解を招く表現、主観でいかようにも捉えられるからタチが悪い。
「など」もそう。「他にもある」と言われる"かもしれない"から、くどくならない程度に「など」を入れるように、と指示される。
クレームが入らないように、批判されないように、誤解されないように。
「読者のために」って言いながら、なんか目指すところ違うくない?
このままやと疲弊すると思った私は受注ストップを決め、もうひとつのインタビュー案件に全振りした。
約1年経った今、その制作会社ではAIに記事を書かせているそうだ。そりゃそうなるよな。これから、この流れはどんどん加速するだろう。
何のために書くのか。何を書くのか。
私にしか書けないことは、何なのか。
漱石さまの本を読む、前と後
なぜ、3回目の通読でこれほどまでに感想が変わったのか。1カ月ほど前に、夏目漱石の「草枕」を読んだからだと思う。
冒頭の2ページほどで、表現の根幹が書かれている。
越すことのならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職ができて、ここに画家という使命が降(くだ)る。
あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするがゆえに尊(たっ)とい。
住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。
「まのあたりに写す」ためには、感性を磨くしかない。感性を磨くには?
悩みながら、自分で考え続けるしかない。
簡単に「答え」を求めるな。他人の感性をパクるな。
感性は、一生かけて磨き続けるものだ。
そんなメッセージを受け取った。
自分への問い
何のために書くのか。
忙しく、思い通りにならない毎日に、ちょっと笑える小話を届けるため。
では、何を書くのか。
昔っから、失敗をネタにして笑いをとるのが得意だ。失敗を恥ずかしいと思わず、「よっしゃネタにできる!」と喜ぶのは大阪に生まれたからだろうか。
「笑い」は人間の武器だと思う。暗く、しんみりとした現実にも、笑いのネタは転がっている。
目の前が広々と開けること、周囲が明るくなることを、古来、日本人は「おもしろい」と表現してきた。「おもしろし」とは、本来、そういう意味だったのだ。
中略
おもしろきことを、発見する力。それは結局、感性の鋭さなのだ。世の中を見る、視線の強さのことなのだ。
おもしろい文章を書けるようになりたい。